テニス関連メモ

テニスの王子様に関するまとめメモ

4th 関東氷帝感想

ミュージカルテニスの王子様4th関東氷帝公演の感想と意見。

送付文の体裁をブログ用に整えました。関氷大楽終わって、書いて、寝かせて、六角公演前に形にした気がします。自分の中で区切りとなる出来事があったので、公開して供養の一助とします。

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●原作で起こっていることを全てやる、全部のシーンを入れて作るという意気込みは感じるのですが、それがシーンや止め絵に限定されており、キャラクター性や試合展開は原作からの乖離を大きく感じました。今まで上演されてきたテニミュ3rdまでと比べ、4thは原作を読んでいない人でも楽しめる間口の広い作品としようとしているように感じています。テニスの王子様を読んだことがない人・今までのテニミュを見たことがない人でも楽しめる分かりやすい作品にしようとして下さっているのかなと思いました。ただ、原作を読めば明白なことが失われている・損なわれてしまっている部分があり、誤解を招く内容でミュージカルとして提供されていると思いました。脚本に強い反発を覚えます。原作を読んだことが無い人も楽しめる舞台を作るのであれば、本来原作に書いてある内容を曲げてはいけない、原作を読んだ時に受け取れる内容から乖離があってはいけないと思いました。それが原作へのリスペクトであり、いわゆる2.5次元舞台を作るにあたって最も大切にすべき部分と思います。
滝と宍戸の関係性(滝が宍戸に言った気に食わないという台詞・・・こちらは立川期間中に演者によりかなりの改良が加えられキャスト本人の努力の跡が見えるとともに、凱旋ではその努力が実り、削られた台詞です)、跡部のS1の狙い(跡部の狙いは手塚が焦って攻め急ぎ隙を生じさせることであり、故障をさせることではない)、観月の跡部に対しての台詞(ナルシーな所が気に食わない)、本公演で目にしたこれらは、原作に描かれているの内容の誤認を招くもので、原作のファンとしてはとても看過できず、テニミュのファンとしてはとても悲しくなりました。原作者の許斐先生はいくつかの媒体で漫画ではキャラクターがまず大事と言った旨のお話をされているかと思いますが、そうした意識でもって大切に扱われてきたキャラクターたちの内面や関係性が損なわれてしまうように感じました。原作ページに書いてあることの再現、それは映像技術を使った各シーンの再現などが顕著と思いますが、そうした分かりやすい部分を作ることに比重が置かれて、話の本筋・キャラクターたちの心情といった大切な部分が蔑ろにされているように感じます。

●(この試合いつまでも見ていたいな)はボーイズが居るなら絶対にボーイズに言わせないといけないと思いました。モブがいるのにモブが発したセリフをモブに当てないなら、彼らが居る意味が半減してしまうと思いました。せっかく何役でも出来る人をおいているのに、氷帝応援団の役割、もしくはネームドキャラクターの外側(真田etc)としての役割に留めてしまうのは無駄な消費に感じてしまい、勿体無いなとました。3rdまでに無かった4thの強みとなる存在がボーイズであると思うので、彼らの存在を使ってしっかりと演目に厚みを作って欲しいと思いました。

テニミュボーイズを菊丸の代役にしなかったこと
何故菊丸は声のみの出演だったのでしょうか。急なことで出演が不可能になることは、コロナ禍以前より想定されることです。アンダーを用意すべきです。1st比嘉にてアンダーキャストが代役を務めてくれたことは前例としてありますし、当時を知っている方がいないとしても、過去の事例としては当然ご存じかと思います。4thに入りテニミュボーイズを用意したことで、アンダーの用意はせずに、万一の時の代役をテニミュボーイズとしているのかと思っていました。
ボーイズキャストたちがCOVID陽性となった公演では、ボーイズが居ない状態で公演をやり切っていたかと思います。各ボーイズが居なくても、氷帝公演は成り立つという実績を得ておきながら、ボーイズを減らして菊丸の代役をさせるという決断がどうして出来なかったのか。とても疑問です。
声は本来キャストに出していただき、身体はボーイズが演じるなどの折衷案もなかったのでしょうか。それが難しいのであれば、凱旋公演は全て休演すべきと思いました。先の意見に通じますが、キャラクターを大事にするという感覚が今一つあれば、板の上に菊丸のキャラクタービジュアルが無いのに試合が進んでしまうことに、違和感があったはずと思いました。

跡部の歌唱が録音だったこと
跡部の曲は3/3以降録音が使われていました。ミュージカルという形態において、歌唱部分を録音で対応するという選択に大変驚きました。どうしてその時点で中止・もしくは代役にできなかったのか、菊丸の不在同様に疑問が残ります。菊丸は存在が視認できない状態で公演を行い、また跡部は歌唱が無い状態で公演を行うという選択に一貫性が無く、運営側に対して信頼性が大きく揺らいでしまいました。原作もの(いわゆる2.5次元舞台と括られるもの)のミュージカルにおいて、原作のキャラクターを大切にせず(菊丸の不在)ミュージカルの部分も拘らない(歌唱の録音)ならば、一体何を軸に公演を実施し何を客に見せたいのか、杜撰で行き当たりばったりな対応に感じました。また、歌唱の録音を使用して公演に臨むことを公表しないことにも納得が出来ませんでした。公演に不備が発生している以上、一部演出を変更しています等、具体的な事を追及にせずとも何らかの告知は絶対に必要なことです。お金を払っている観客に対して、とても不義理な対応です。

●そうした菊丸の不在、跡部の録音歌唱を選択して行った凱旋公演について、跡部キャストの体調不良のために公演を中止したこと
菊丸キャストは怪我の影響でライトと声のみで凱旋公演実施を選択しましたが、その後、跡部キャストの体調不良により3/4の両公演が中止となりました。なぜでしょうか。理由を複数名の体調不良、とした凱旋前半の休演は仕方ないことと納得ができました。ただ、その後に起こった個人の体調不良が理由の公演中止については、キャスト側にも観客側にも、とても無配慮に感じられました。どうして個人を理由に公演を中止したのか、それが仮に“主役級”だから、“人気キャラ”だから、という理由であったなら、その“主役級”、“人気キャラ”という線引きはどこにあり誰が決めるのでしょうか。不在を許容し公演を続行するのか、不在を受け入れず公演を中止とするのか、それらを人気という不確かなもので判断しては絶対にいけないと思います。仮にこれが手塚であったら、もしくは日吉であったら、不二であったら、ジローであったら、そうした時にどこまでは不在を許容せず、どこからは許容するのでしょうか。それに対して明確な答えがあるのでしたら良いなと思いますが、現状でそれは見えてこず、3/4の代替ステージの挨拶時にも触れられていなかったので、今後の公演実施に対して凄く不安が残りました。今回は菊丸役・跡部役それぞれにおいて声だけの出演、公演中止といった対応をとられていましたが、例えば今後、何らかの理由で本キャストが舞台上にたつことが難しくなった時、アンダーキャストで代役を選択するのか、それとも公演中止を選択するのか、そうした今回に類する時の判断基準が不明瞭で、それをキャラクター人気/キャスト人気といった所で判断されるのは絶対に避けるべきと強く思います。関東氷帝公演の対応の非難というよりは、今後に対しての警鐘の意味合いが強い意見です。
髙橋怜也さん演じる跡部景吾が舞台に立てなくなった時、関東氷帝公演を中止としたことで、今後同様の事が起こったときにどういった対応を取るのか比較されてしまうと思います。例えば、跡部の時は休演したのに幸村の時はアンダーでやるのか、といった意見が出るだろうという事です。実際今回の氷帝期間中も、跡部以外は大丈夫なのにどうして中止しないといけないのかといったナーバスな意見は耳にしました。氷帝公演に対しての意見は、跡部以外は舞台に立てる状態であるという事を3/4代替歌唱ステージにて観客に示したことによる弊害です。
公演中止について、実際には個々人に起因する休演となった場合でも、あくまでもそこは隠すべき事柄と思います。客側に(〇〇のせいでこうなった)と感じさせないために、何も語らずに結果を伝えるべきです。それが客側のマイナスな目線やバッシングからキャスト個人を守ることに繋がると思います。それは運営サイドが請け負う緩衝の役割であり健全な興行実施において倫理的に尊重されるべきことではないでしょうか。
また、劇団という形態をとっていないテニミュにとって、芸能事務所に所属する役者は他社の商品という位置付けと思います。そうした立場のキャストに、公演自体の実施可否の責任を載せてはいけないと思いました。彼らが1商品として背負うべきは自身の出演可否までではないかと思います。本人の体調不良や怪我、不祥事、事故といったことは可能性として起こりうることで、そうなった場合に公演への出演を見合わせることまでがキャスト個人の責任の範疇のように思います。個人に起こったことで公演が中止にならないようにリスクを分散し、適切に公演を完遂することが運営として絶対的に求められる部分のように今回の件で強く思いました。今後、そうした点も意識し注力して頂ければ良いなと思いました。

●ベンチのセットがすごく良かったです。やっとコーチベンチが来たと思って嬉しかったです。今後、背もたれに座る赤也が見られるのかなと思うと楽しみです。ただ、今までのベンチたちより大きい上に存在感があるので、アクロバティックの着地先の方向にはベンチを置かないであげて欲しいと思いました。舞台上をネット装置で前後に割った時、奥コートはネット回転電源用ケーブルがあることで、足場が悪く大きな動きに向かない分、手前コートでやる選択が増えると思いますが、そうした時に、側転の先にあのベンチがあったら多分怖いと思いました。着地の方向に出っ張った物があるかないか、そうした要因一つで、伸び伸びとした動きが出来るか出来ないか変わってしまうと思うので、位置関係の調整で解消できるのであれば、配慮してあげて欲しいと思いました。センターから氷帝ベンチ側へアクロバットするときの岳人など、もっと広々とのびやかにできるよう意識してもらえたら更に良いなと思いました。

●榊の台詞が録音で目立ちすぎると思いました。スーツの後ろ姿まで見せて存在を表現するなら、なぜ竜崎すみれが居ないのか、そこの線引きを人気不人気もしくは性差等ですべきでないと思いました。勿論そのようなことはないと思いますが、そう思われるような隙は見せない方がいいように感じました。
榊から過去キャストの声がすれば、勿論それを知っている人は嬉しいと思いますが、従来のテニミュから大きく舵を切り独自路線で公演を作る中で、果たしてそうした旧キャストの起用が本当に必要な事か疑問でした。生の舞台で試合を行っている中、録音の声が流れてくることはとても違和感で一種のストレスとなります。もちろんかつての跡部キャストが氷帝の監督である榊の声を当てることは情緒的ではありますが、それによって集中が途切れるようであれば演目としてはマイナス面の方が大きく、声を目的として観に行こうとはなるとは考えにくいので商業的にもリターンがあまり無いように感じました。


以下、歌詞・曲についての意見・感想です。
●S1ラスト  手塚と跡部の歌い合い中のリョーマのカットインについて
リョーマは、"俺に負けを与えた" という言い方は絶対にしないと思います。あれだけ負けず嫌いの人は、たとえ事実だとしても、自分が返せなかったショットのことをあれほど高らかに歌いあげるはずがないと思います。聞いていて凄く違和感がありました。リョーマが関氷のS1試合中に「俺に勝っといて負けんな」という台詞をベンチからコートにいる手塚に向けて投げかけるまで、大石と不二を除いた青学テニス部の中で、(リョーマと手塚が試合をしたこと)/(手塚がリョーマに勝ったこと)は表立って認識されていないものです。高架下の試合で手塚がリョーマに対して零式ドロップを打ったことは、原作中では結局青学に対しては語られておらず、リョーマが補欠戦の冒頭でラケットヘッドが30㎝下がった零式を真似て打つまで、そこでやっと鋭い人(桃城など)が、手塚-リョーマ戦で、手塚部長は零式ドロップを打ったのかと気付くレベルでは無いかと感じています。校内ランキング戦を戦い、オーダーでシングルスの座を奪い合う彼らは勝ち負けに対してはぺらぺらと人に話したりはせず、敗北は人によっては隠したり、凄く悔しがるものと思うので、もう少しデリカシーをもって歌詞を書いてあげてほしいと思いました。

●S1手塚と跡部の歌い合いについて
〝油断のないテニス〟というワードを跡部に歌わせた意図が最後まで分かりませんでした。手塚の代名詞でもある「油断せずにいこう」を想起させる歌詞と思います。それを跡部に歌わせる意味や狙いが最後まで分かりませんでした。理由無くそうさせたはずがないと思いますので、今後、説明の機会があることや、伏線として回収されることに期待します。

●凍てつくのか溶かすのかハッキリしてほしい
円盤入手後に歌詞カードを早く見たいと思いました。

●イニシアチブ 滅びゆけ〜のあとに、初日―岐阜(?)間で、跡部のショット(インパクト音)が1回増えていること
ラリーが完成していない状態で初日に臨んでいたのでしょうか。ラリーは試合展開に直結するシビアな部分なので大事にしてほしいと思いました。1度しか劇場で観劇出来ない人もたくさんもいます。何回も見ることを前提に演出や振りに修正を重ね最終的に間に合わせる事と、仕上げたものを更により良くブラッシュアップする事は違います。ショットの追加は前者です。今回においては立川公演が映像化され記録として残ると思います。追加・修正される前の不完全なものが正史として残るという事です。重く受け止めてほしいです。凱旋公演との編集が可能であれば、切り貼りして本来あるべきものを残してほしいと思いました。

跡部ソロ曲【イニシアチブ】について、S1の跡部の狙いについて
派手な大技だけでなく、試合運びについてやっと重点をおいた曲が来てくれたととても嬉しかったです。ただ、歌詞が(致命傷)(朽ち果てろ)など、本来原作で描かれていた跡部のゲームプレイとかけ離れていて期待した分、落胆も大きかったです。また、破滅ヘの輪舞曲の説明で始まってしまうこと、主導権は俺(跡部)だという曲が、手塚のショットに対して跡部がリターン出来ない形で終わるなど、全体的にバランスが悪く、何を言いたい曲なのかぼやけていて、センスが無いなと思いました。

また、イニシアチブのあとに「そろそろ攻めないと致命傷になるぜ、さぁ焦って攻めてこいよ手塚!」の台詞が無いことで、跡部の本来の狙いが分からなくなっています。跡部の狙いは本来、脚本の段階で明確に描かれているべき部分のはずです。跡部は手塚の腕を壊したいわけではなく、腕に爆弾を抱えているから手塚は持久戦には乗ってこれないはず、だから焦って攻め急ぐしかないだろう、と手塚の焦りを誘っています。見え見えの持久戦の空気を提供することで、手塚の戦術の選択肢を減らし、攻め急ぐことでミスも生じるだろうと精神面が起因の優位性を持とうとしているという事です。自分が主導権を握って〝試合を優位に進めること〟が跡部のS1の狙いで、高橋さんの演技はそれが凄く表現されていると思いました。
だから手塚が持久戦に乗ってきた時に、原作で跡部は(馬鹿な、あえて持久戦に挑んできやがるとは)と感じています。手塚が持久戦に乗ってくること自体が、テニスプレイヤーのセオリーからも跡部の展望からも外れている、言うなら(馬鹿な)行いだということです。その後跡部は、持久戦を選択した手塚に、マッチポイントまで追い詰められてしまいます。思い通りの試合展開にならなかったどころか、相手は不得手で自分は得意なはずの分野(持久戦)で、敗北寸前まで追い込まれ、手塚の焦りを誘うはずだったのに、手塚が跡部の誘いに乗らなかったがために、跡部に焦りが生まれて逆に追い詰められるという本当によくできた展開で面白い試合のはずです。そうした試合の展開が今回の関東氷帝公演からは無くなってしまっているように思いました。メンタルスポーツであるテニスにおいて、本来最も重要であるはずの跡部-手塚間で行われている駆け引きが無くなっており、とても残念でした。表面上だけを見せる大味な仕上がりになっているために、ストーリーに深みが無くなり面白くなくなっていました。

4th 関東氷帝公演を見た複数の友人から、どうして手塚が故障した後の跡部って嬉しそうじゃないの?と聞かれることがありました。跡部が嬉しそうではない理由は、跡部は手塚の腕を壊したいわけでも、それを狙ってたわけでも無いからですが、今回の公演で見える範囲だと、S1の跡部はそういう風(手塚の故障を狙って試合を展開した)に解釈されてしまい、そのために原作にある台詞(跡部の奴ちっとも嬉しそうじゃねぇ)と齟齬が生まれ、見ている客側に疑問が生じてしまうんだなと思いました。跡部役の高橋さんは、S1の試合が跡部の思い通りに進まなかった驚きや悔しさや葛藤を演技で表現して、手塚への思いの移り変わりもすごく丁寧に表情で作ってくれていたと思いました。ただそれは私自身が跡部にフォーカスしているから見えてくる部分であったり、元々原作という下敷きがあるから理解が進んだ部分なんだと思いました。そうでない友人たちのような方(元々テニミュ/テニスの王子様の見地があっても氷帝に対して思い入れの少ない層)にとっては、原作から欠けた台詞には当然気づけず、本来の原作の内容を誤認する脚本になっていることにも気づかず、賞賛されるべきキャストやキャラクターやストーリーに対して疑問を生じさせてしまい、本来あれほど面白い屈指の人気試合のストーリーがよくわからない状態になっているんだと思いました。そのような公演が、試合が、観客の大多数に提供されていることが、すごくすごくつらかったです。

間違えてはいけないのは、持久戦というフィールドをこれ見よがしに出したのは跡部ですが、それを選んだのは手塚であるという点です。本公演はそこを誤解させる作りになっています。ここが本当に観ていて違和感しかなく、気持ちが悪かったです。
未来で榊が言うように、跡部は好んで相手を平伏させるテニスを選択していたそうなので、相手の実力よりも自分が上回っていることを示すことを重要視して(もしくは好んで)いるんだと思います。であれば、相手が怪我していたから勝ったという勝利は、本来跡部の中で楽しくはなく価値としては低い筈です。ただ、それは跡部個人の心持ちであり、氷帝としての立場がどのように作用するのか、そうしたことまで考えてほしいと思いました。高橋さんはアドバンテージサーバーと言われてから〜手塚がサーブを打てないところまでの表情が凄く作り込まれていて、上記のような部分も考えて作って下さったんだろうなと感じました。手塚は焦って攻めてこないといけないし、それをしない手塚に対して最終的には敬意でもってラリーに応じたけれど、そこに行き着くまでには跡部の中でかなり思いの変遷があり、それを演じてくれているように見えました。
持久戦をするぞという跡部の演出は結構ブラフであり、当初の跡部の試合プランとしてはこれ程の持久戦をやる予定ではなかったと思います。手塚が持久戦を選択した時の跡部の心情として、(なに愚かなことをやっているんだ-①)という手塚への思いもあると 思います。持久戦に乗ったら腕を壊すことは分かっていたはずです。ただ腕の状態を押して進めた持久戦でここまでの試合をする手塚に、跡部の中で畏怖が生まれたかも知れない、自分の読みの甘さに苛立ちを感じたかも知れない、ここで1番跡部が気持ち的に手塚に敗北を感じたはずで、手塚に対してなのか、自分に対してなのか、そうした焦燥期-②があると思います。
そのあと手塚の肩が壊れてしまうけど、跡部が全く嬉しそうじゃないのは、上記の通り別にそれを狙っていたわけではないからです。どちらかと言えば自分の思い描いていた展開と真逆なことが過程で起こっていたのに、結果として自分に利するようになったという形です。試合が中断された時点の跡部は、その点にまだ納得がいっていないのではないかと思います。
そのあとに手塚への失望③と手塚への礼賛④が、跡部の中に立て続けに発生するために、上記の前提が凄く大切なんだと思います。肩が上がらず威力の無いサーブを打つ手塚に対して、だから手の内(持久戦)を見せていたじゃないか、結局俺の眼力通り、お前がフルで戦えもしない持久戦に乗ったから肩を壊したじゃないかという手塚の見通しの甘さ-③。と、それを経た上で、こんながむしゃらさを持って試合を成り立たせる、勝つためだったら零式まで打ってくる、今、チームにたった一つの白星を持ってくるためにショットを重ねる部長としての姿、そして怪我を抱えていても、自分に切迫してくるプレイヤーとしての強さ-④。それ④は跡部の想定を超えた光景で、だからたとえこの試合がどれほど続いたとしても俺も最高の力を1球1球に込めるし、それは俺にとって無二の試合になるという流れと理解しています。

予期できる出来事を引き起こしているにも関わらず、予測以上のパフォーマンスをし続ける手塚に対して、跡部が敬意を持って試合を続けているから、私たち観客のうちの"誰か"は、(この試合ずっと見ていたいな)と呟いてしまうんだと思います。私たちが(見ていたい)のは、上記の跡部の思いの乗った試合で、手塚の部長としての意志とプレイヤーとしての意地を感じる至高の試合な筈と思っていました。関東氷帝S1は熱い試合で心が震える試合ではありますが、今回描いたミュージカル程、痛々しい試合では無いのではないかと思います。

死闘ではあるけど至高の試合で、死に物狂いではあったけど恨みつらみは無い、体力を気力が上回った尊ぶ試合で昇華されたものと原作が表現しているものを、4thで、ミュージカルで見た時に、二人の部長がお互い辛そうで、しんどそうで、そこに原作との乖離を感じるから、どうしようもないけどモヤモヤしました。マジで4thの、このs1を、ラリーをいつまでも見ていたいの?って、観客のモブに対して、初日も思いましたし、岐阜でも思いました。


ただ、こうした感想も岐阜公演時点でのもので、凱旋公演はキャストの演技について意識を持って行けず、体調について意識を割かれることが多かったので、公演を実施したこと自体がそもそも残念でした。奇しくも、4thが描いた痛々しく辛いS1の試合が、現実と重なることで化学反応を起こしましたが、それは本来の演目の姿ではなく、本来の演技プランからも外れていたように思います。公演実施を美談にしないでほしいと思います。観客からの一時の非難を受けることを怖がるよりも、キャストの心身の健康を第一に考えて、原作をリスペクトする気持ちを忘れないでほしいと思いました。今後の健全な運営に強く期待します。これからも頑張ってください。