テニミュの跡部に求めるものとは
先日ずっとお会いしたかった方とお茶を飲む機会があり、全立前編観劇後にお喋りすることが出来た。色々かいつまみながらテニスの話をしたけど、その中でどうしても3rd跡部の話が頭に残っている。
関氷の幕間に伝染した痺れるような興奮のこと、ドリライ2017のノーウィッグ練習シーンにキレたこと、昨年の夏が辛くて辛くてどうしようもなかったこと。次のドリライではしゃげるか不安なこと、3rd跡部が上島氏にとって待望の跡部だったと予想されること。
最後の待望の跡部論は、私にとっては衝撃的で目からうろこが落ちた。3rd跡部が何故ああも手ごねで愛されて指導を受けて優遇されてあれで良しとされるのか。その背景が分かった瞬間だ。一年越しでやっとあのクソみたいな全氷の内情を知った。
私は1st全氷という、かつてのテニミュの跡部を取り巻くあれこれを、知識としてしか知らず、それが現代まで繋がっているなんて考えもしなかった。
彼は跡部にならなかった人だ。私が3rd全氷の跡部にアプローチするときに参考にしたり比較したりする範囲は、今までの跡部として板に立った人や、原作を基準とする自分の中にある跡部像だ。あんな事は語られない歴史の1ページで、それが現代の跡部に影響があるなんて思っていなかったのだ。
岡山外潤氏は踊れる人だった。
ああそうか、だからか。2008年からやりたかった跡部なのだ。あのころからやりたくて出来なかった事を10年越しで今やってるわけだ。気の長い話だ。そりゃはしゃぐわ。そりゃそうだ。上島先生はずっとずっと踊れる跡部が欲しかったのか。
加藤和樹という体現者の後に、別方向の跡部が欲しくて、しかし実らず、久保田と井上を代行に立て、さて2ndと思えばあの奇跡の造形のtnが現れ、また思い描く方向に舵を切れず、ライバルズのみの跡部は恐ろしいほどに実験的で、客も作る側も向き合い方が少し違った。だから求めた跡部を小沼で造ろうとはしなかった。そして3rdだ。三浦が来た。もう笑えてきて、諦めた。
それがしたいなら無理だ。私がどう読み解こうが無理だ。周りがどう奮闘しようが無理だ。話が合うわけがない。だってあれで良いんだろう。あれが良いんだろう。あれがやりたかったんだろう。他の全てに差し置いて、ダンスが優先されるという事だ。ダンサー由来の踊れる跡部とはそういうことだ。歌唱よりスタイルより外見より演技より、動けることが優先される。他の要素は最低限出来ていれば構わないという事ではないか。あれが欲しかったんだろう。くそったれ。
ダンサーと役者の垣根の低い人が苦手だ。踊れる事≒動ける事なので、動けるに越した事はないけれど、私が見たいのは跡部景吾だ。だって、何を一番頑張りますかってなったときに、ダンスを一番頑張りますってわけでしょう?それで射止めた跡部役だし、それが求められる跡部なんでしょ。そしてそれが当代においては正しいんでしょ。でも私にとってそれじゃ困る、板の上で跡部景吾に近付こうとするとき、そのツールがご自身の得意分野であるダンスじゃ困る。
所作なら良い。動きのキレなら良い。そうした一つ一つには思考が付随する。しかし、出来る力で身体を使ってダンスをする事は跡部にリンクしない。ダンス以外ももしかしたらそうで、圧倒的歌唱力で跡部を射止める人が今後いるなら、私は今回と同じ思いを抱くのかもしれない。自らの得手で対象を表現しようとするとき、それはもう私の中でアクターではなくアーティストなのだ。
諏訪部氏はかつて跡部景吾の名義でCDをリリースする中、キャラクターとしての跡部がこう歌いあげるだろうかという葛藤があったと語っている。あの諏訪部氏ですらそう逡巡するのだ。いわんや若手俳優をば。しかしそういった思考の軌跡は見られず、少なくとも3rdでは、アーティスティックな跡部が正統とされた。その跡部が見たくて足を運ぶ人も沢山いたんだろう。私は開幕以降にチケットを増やしはしなかった。
アーティストとは何か。芸術家か自己表現者か。彼らによって作り出される三次元の跡部景吾。多分自己がいらない。跡部の装いで自己表現なんてして欲しくない。アーティストってめちゃくちゃ個人だ。アーティストが見たいなら個展に行けばよくない?私は役者が見たい。ひたすらに演技が見たい。現世で跡部に成り代わる為に、どう試行錯誤したのか思考が見たい。対話がしたい。ダンスが下手でも歌が下手でも動きが硬くても何でもかんでも、演技に理由があれば恐らく私は構わない。
そこの理由より優先されるものがあっては駄目なのだ。跡部景吾はこうだった、と教えて欲しい。納得させてほしい。私が一生立つことのない立場に立って、どう跡部景吾に成ろうとしたのか教えてほしい。
それが私の思う、演技で役者で特異点の義務だ。頼む。解釈して教えてくれ。いくら瞬間瞬間で跡部になっても、3次元にいる時点でキャストは分類するなら私たち側に過ぎない。跡部と自分をリンクさせるなんて、私からしたらおこがましい。キャストは“跡部景吾”と“それ以外”の“それ以外”に属している。だから跡部の姿で得意な表現なんてして欲しくない。
いつだったか、tnが跡部のウィッグを付けるときは王冠を戴く思いで被っていたと話していた。跡部に成るとき、そうあってほしい。別の立場のものに成り代わると思って欲しい。跡部景吾じゃない3次元の固体が跡部景吾をやる時点で恭しくあってほしい。立場が違う。私が重視するのはどれだけ異次元になれるか、別のものになってくれるか、現実にありえない跡部景吾という概念をどれだけこの世界にもたらしてくれるのか。自身のポテンシャルでもって人を惹きつけようとするプレイヤー精神はそこに必要ないのかもしれない。
じゃあ私は一体テニスの王子様というミュージカル演目に何を求めて何を観に来ているのか。踊れることに文句を付けて、歌えることにも文句を付けるなら、一体もう何を見に来ているのか。私はただひたすらに跡部に会いたくて、これは言うまいと思っていたけど、どうしたってテニミュを観に来ている。
『テニスの王子様』という演目の“ミュージカル”ではなくて、『ミュージカルテニスの王子様』という演芸(=テニミュ)を観に来ている。だから歌がヘタクソだろうと踊りが踊れなかろうともうでもいい。いや、どうでも良くはないのだけれど、どうにだってなる。成り立つ。ミュージカルは成り立たなくてもテニミュは成立する。
これを言ったらおしまいだ。テニミュのクオリティが上がっているとか、演目として業界で評価されて欲しいとか、そういう志にファンなはずの私が背後から石を投げている。
テニミュを見に行っているから、歌もダンスももうでもいいと言ってしまう。アイドルミュージカルかよ、結局顔が良けりゃあいいんじゃねえか、と揶揄される要因を言ってしまった。でもそれも違う。そういう訳でもないのである。顔が良いだけでは認められず、キラキラしているだけでも認められない。
私がテニミュで接したいものは、顔でも動きでも歌でもダンスでもなく、ただひたすらにキャラクターだ。そしてこのキャラクターというのは、自分にとって特別な、跡部景吾や忍足侑士たちを指していた。
【“跡部が出ている演目の”ミュージカルテニスの王子様】と【“跡部が出ていない演目の”ミュージカルテニスの王子様】の二つがあった。私は同じ【ミュージカルテニスの王子様】という連続した演目を見に行っているはずなのに、二つを見ている視点がまるで違う。
【ミュージカルテニスの王子様】に求めるものがまるで違っていたのだ。“”の跡部の部分は氷帝といってしまっても良いけど、全立後編にも文句を言う事がわかっているので跡部とした。だってまだフライヤーしかないのにもうすでにどこに目線合わせてんだって文句言ってる。
【“跡部が出ている演目の”ミュージカルテニスの王子様】を見るときの私は、もちろんのこと跡部景吾に会いに行っている。氷帝の夏を見に行っている。キャラクターに会いに行っているから、キャストに対してはどれだけキャラクターに近付いてくれたかが大事になってくる。だからこの場合は演技を重視している。
さっきから散々ガタガタ言っているのがこちらだ。答えは無いキャラクターに成りきる様を見に行っている。何より大切にしたいのはキャラクターへの理解度になる。キャラクターが何を考えて行動しているのか理解して、それを体現してもらう。それを受けて、私も跡部のことや氷帝のことをより深部まで考えめぐらせる。
全国氷帝のある日、私は越前リョーマにこうアンケートを書いた。『You still have lots more to work on.の中でstillhaveかlots moreにイントネーションの強さを入れて欲しい。まだまだだねの意味であるなら、Youよりもそちらに重きがおかれるはずだ』。これは私が自発的に気付いたわけではなく、人からそういう話を聞いて、そりゃその通りだと思って許可を頂いてアンケートに書かせてもらった。越前リョーマならそりゃそうだと思った。
そして、その翌公演、こんなもんはその日の聞こえ方だし、リョーマの前後の仕上がりにもよるし、円盤でどう収録されているのか私は知らないし、全く全く関係が無いかもしれないけれど、リョーマのイントネーションはstill haveに変わった。
泣いた。我に返って泣いた。越前リョーマが強くなってしまった。全国氷帝であんなに強かった越前リョーマがまた一つ真に近付いた気がした。
もう私は氷帝を名乗る権利が無いと思った。非国民だと思った(跡部王国の非国民ではなく、氷帝という学校に所属する上での蔑称としての非国民だ)。氷帝の校名を叫ぶ事も跡部の名前を呼ぶ事ももう私がしてはいけない事だと思った。私は氷帝の立場でありながら、テニミュの青学の越前リョーマに塩を贈って、勝ちを望んでいる跡部の首を絞めた。
このときの心情として、ミュージカルテニスの王子様という演目から見れば、リョーマの演技の発展という喜ぶ出来事である。実際、アンケートに書いたときはもっと良くなってほしいから書いているわけだ。決め台詞の発音のひとつに意味をしっかり携えて臨んでほしい、それが叶った。
しかし、実際それを聞いた私は、仁愛のリョーマが一味深くなったことよりも、それを受ける止める跡部の事を考えて、なんて事をしてしまったと思った。こんな事がしたかったんじゃない、跡部の勝利の可能性を一滴でも減らすような事をした。あんな事リョーマに言わなきゃ良かったとすら思った。もうミュージカルなんて毛ほども見ていないのが分かる。役者の出来栄えよりも、カンパニーの完成度よりも、氷帝に没入し跡部の傍らに立って物事を見ている。
このときの私は『テニスの王子様』という演目の“ミュージカル”ではなく、【テニミュ】という形態の演芸を、自らが選んだ氷帝という立場に所属して体感しているから、演目のクオリティよりも自らの満足を求めてしまっているのだ。
対して、【“跡部が出ていない演目の”ミュージカルテニスの王子様】を見ているときの私は、言ってしまえばとても気楽だった。前者のときほど、キャラクターを見てはいない。ミュージカルを見ている。これは娯楽だ。(じゃあテニミュはなんなんだよって話だけど)
だからそれが良かったあれがよかった彼が良かった彼はイマイチと、見て一瞬で分かることを喋って楽しんでいる。だから、他校キャストでは分かりやすく踊れる人や声の伸びがいい人が比較的好きだ。
お前が思うキャラクターはそれなのか、本当にそうなのか、なのにそのベンチワークか、お前はこの団体戦で何を任されているか知っているか、オーダーの読み合いを考えたか、お前は本当に勝ったか。こんな答えの無い質問の拳を振るう事もない。そこまでの答えを求めていないし、多分私側がそこまで氷帝以外を知らない。それだけのことを言えるファンの立場に私がいない。
だから、そこそこ上手くて気合の入ったキャストを各校各校で割りと好きになった。このとき私は比重としてはキャラクターよりも、テニミュキャストを見に行っているのかもしれない。だから良かった!と思うキャストの写真をご祝儀のような気持ちで買ってしまうのかもしれない。(3rdなら内村、木更津、佐伯、白石あたりが割りと好き。でもこの【割と好き】なんてものは、いつでもひっくり返る掌程度の軽い好意である)
踊れる事、歌える事の評価の対象はキャストで、他校の人にはそうした技術の完成度を求める。しかし自分にとって特別な学校(氷帝)で、特別な彼ら(跡部忍足を筆頭とした氷帝R陣)は、キャストである必要が無く、キャラクターであってほしいと思い、理解度を求める。前者の場合はキャストの熱に興奮したいが、後者の場合はキャストから何かを感じとって感動なんてしたくない。キャラクターだけに心を注ぎたい。私はもしかしたら三浦が跡部でなかったなら、テニミュキャストとしては彼をとても愛したかもしれない。
だがしかし彼は跡部景吾なので。そして私は跡部景吾のファンなので。だからこそ、跡部ファンであるからこそ、私は彼の跡部を手放しで愛することは絶対にしないし、三浦の跡部に対して図が高いと思う。
関氷では私はこんなにガタガタ言わなかった。関氷のブリザードを私は絶賛したし、その気持ちは今も変わっていない。あの時は跡部をやる、という気概が感じられた。青学をぶちのめしてやるといった闘争心すら感じた。
関東のあの誇りの高さはどこへ行ってしまったんだろう。技能に舵を切ったからではないのか。気持ちの上で跡部に挑むというものがなくなったんじゃないのか。
持てうる技能で何かを表現するとき、そこにはゴールがある。やりきった、という本人しか分からない範囲で満足が生まれる。
やれることをやれたら終わりなのか。答えがない正解がない終わりがない模索の先の、次元の先に、キャラクターが居るのではないのか。届かないから、それになろうと焦がれて、感を極めて、そこに敬意が生まれるのではないのか。
自分が演じるキャラクターに対して尊ぶ気持ちのないものが、テニミュで部長を張れるかよ。
こういう目線にしただろう。
こういう風にそっちが見せてきたじゃないか。キャラクターに思考を付随させ、2.5次元という狭間を作って、青春体感という枕詞でキャストとキャラを≒で繋いで、散々こっちの頭をおかしくさせておいて、今さら一芸特化でこっちを納得させられると思うなよ。
これはキャストの話ではなく、指導と方向性の話なのかもしれない。いったいどこまで口を出すつもりなのか。でも、もうそこが行き届いていないとしか思えない。
演技も思考も熱も一芸以外の何もかもが足りていなくても、ダンスという部分で仕上がってさえいれば許容される全氷にした。
そんなのテニミュじゃねぇ。テニミュじゃねぇ。テニミュじゃねぇよ。テニミュという共通認識をぶち壊してる。少なくとも氷帝ファンは認めるわけにはいかなくないか。氷帝ファン以外から、バレエの動きが良かったとか、跡部が踊れていたといった評価を受けるならまだしも、氷帝ファンなら、氷帝ファンだからこそ、あの全国氷帝をテニミュとして許せないのは正常ではないの。
ミュージカルとして三浦が及第点だったとしても、内情の推察ができた上で、私はあれをテニミュとして飲み込みたくない。
もっと難癖をつけていい?
バレエってフランスじゃないか。調べたところ発祥自体はイタリアのようだか、現代へ繋がる私達が知るバレエはフランスのものじゃない。宮廷で発達し大衆に広まった文化だ。パリ・オペラ座だ。同じダンサーだったとしても、私にとってはB系のほうか遥かに遥かにマシだった。踊れるというだけで、あの跡部景吾が、あのフランスの、ひいては踊り子文化をまとう事に、ああちくしょう、今更ながらに目眩がする。
3rdの跡部が好きとか嫌いとか、そういうことは言えない。そもそも飲み込めなかろうが吐き出すしかなかろうが、嫌いと言えるはずはない。
でも昨年からもうずっと、テニミュに跡部を人質にとられている心地が続いている。
諸事情で纏めるのがひと月以上遅れてしまった
これはもともと運動会の前に書いていたものです
実際お会いしたのは先日どころか2ヶ月くらい前です