忍足の記事にコメントを下さった方へ
忍足への記事について、コメントを下さった方へ
コメント本当に本当にありがとうございます。頂いてから月日が空いてしまい申し訳ありません。今こちらの記事を呼んで下さっているか分かりませんが、頂いたコメントに本当に救われ、励まされましたことをまず初めにお伝えいたします。
私が気持ちのままに、書き殴ったものが、時を超えても届くものなのだと、胸が熱くなりました。それは忍足侑士に対する思いをお互いが抱えているという下地があってこと成り立つものとは思いますが、あんな風に力強くかつ繊細に、こちらが込めた熱のままで受け取って頂けるとは思っていませんでした。本当に本当に嬉しかったです。
2xxx年になって初めて無印のテニスを〜といただきましたが、その読後感と感性は私がもう二度と得られない貴方だけの替えがたいものです。どうかそれを大切になさってください。私もこのブログで文章にするまで、かなり自分の中で大切にしていたように思います。
私は今も引き続き自分が求める忍足を探し続けています。
無印のテニミュが続いてほしいと願う理由は、あの頃の私の理想の忍足に会うためと言っていいかもしれません。(別件ですが、跡部については今回ほぼほぼ求める理想の跡部が提供された事もありかなり満足しました)
忍足について書いた当時、4thは無かったのですが、現在は4th関東氷帝も終わり、この世界の中に一人忍足侑士が増えた状態になりました。
本誌では代表の座をかけて跡部と試合をしましたが、まだ満足できないです。もっともっと出てきて欲しいしもっと見せて欲しいです。忍足も満足げにしないで欲しいです。
コメントを頂いたおかげで、本誌での露出と4thの忍足について考える時間が増えましたので、また落ち着いたら改めて整理したいと思いました。
コメント本当にありがとうございました。支えられました。
忍足侑士、いつまでだって会いたい男ですね。
4th 関東氷帝感想
送付文の体裁をブログ用に整えました。関氷大楽終わって、書いて、寝かせて、六角公演前に形にした気がします。自分の中で区切りとなる出来事があったので、公開して供養の一助とします。
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●原作で起こっていることを全てやる、全部のシーンを入れて作るという意気込みは感じるのですが、それがシーンや止め絵に限定されており、キャラクター性や試合展開は原作からの乖離を大きく感じました。今まで上演されてきたテニミュ3rdまでと比べ、4thは原作を読んでいない人でも楽しめる間口の広い作品としようとしているように感じています。テニスの王子様を読んだことがない人・今までのテニミュを見たことがない人でも楽しめる分かりやすい作品にしようとして下さっているのかなと思いました。ただ、原作を読めば明白なことが失われている・損なわれてしまっている部分があり、誤解を招く内容でミュージカルとして提供されていると思いました。脚本に強い反発を覚えます。原作を読んだことが無い人も楽しめる舞台を作るのであれば、本来原作に書いてある内容を曲げてはいけない、原作を読んだ時に受け取れる内容から乖離があってはいけないと思いました。それが原作へのリスペクトであり、いわゆる2.5次元舞台を作るにあたって最も大切にすべき部分と思います。
滝と宍戸の関係性(滝が宍戸に言った気に食わないという台詞・・・こちらは立川期間中に演者によりかなりの改良が加えられキャスト本人の努力の跡が見えるとともに、凱旋ではその努力が実り、削られた台詞です)、跡部のS1の狙い(跡部の狙いは手塚が焦って攻め急ぎ隙を生じさせることであり、故障をさせることではない)、観月の跡部に対しての台詞(ナルシーな所が気に食わない)、本公演で目にしたこれらは、原作に描かれているの内容の誤認を招くもので、原作のファンとしてはとても看過できず、テニミュのファンとしてはとても悲しくなりました。原作者の許斐先生はいくつかの媒体で漫画ではキャラクターがまず大事と言った旨のお話をされているかと思いますが、そうした意識でもって大切に扱われてきたキャラクターたちの内面や関係性が損なわれてしまうように感じました。原作ページに書いてあることの再現、それは映像技術を使った各シーンの再現などが顕著と思いますが、そうした分かりやすい部分を作ることに比重が置かれて、話の本筋・キャラクターたちの心情といった大切な部分が蔑ろにされているように感じます。
●(この試合いつまでも見ていたいな)はボーイズが居るなら絶対にボーイズに言わせないといけないと思いました。モブがいるのにモブが発したセリフをモブに当てないなら、彼らが居る意味が半減してしまうと思いました。せっかく何役でも出来る人をおいているのに、氷帝応援団の役割、もしくはネームドキャラクターの外側(真田etc)としての役割に留めてしまうのは無駄な消費に感じてしまい、勿体無いなとました。3rdまでに無かった4thの強みとなる存在がボーイズであると思うので、彼らの存在を使ってしっかりと演目に厚みを作って欲しいと思いました。
●テニミュボーイズを菊丸の代役にしなかったこと
何故菊丸は声のみの出演だったのでしょうか。急なことで出演が不可能になることは、コロナ禍以前より想定されることです。アンダーを用意すべきです。1st比嘉にてアンダーキャストが代役を務めてくれたことは前例としてありますし、当時を知っている方がいないとしても、過去の事例としては当然ご存じかと思います。4thに入りテニミュボーイズを用意したことで、アンダーの用意はせずに、万一の時の代役をテニミュボーイズとしているのかと思っていました。
ボーイズキャストたちがCOVID陽性となった公演では、ボーイズが居ない状態で公演をやり切っていたかと思います。各ボーイズが居なくても、氷帝公演は成り立つという実績を得ておきながら、ボーイズを減らして菊丸の代役をさせるという決断がどうして出来なかったのか。とても疑問です。
声は本来キャストに出していただき、身体はボーイズが演じるなどの折衷案もなかったのでしょうか。それが難しいのであれば、凱旋公演は全て休演すべきと思いました。先の意見に通じますが、キャラクターを大事にするという感覚が今一つあれば、板の上に菊丸のキャラクタービジュアルが無いのに試合が進んでしまうことに、違和感があったはずと思いました。
●跡部の歌唱が録音だったこと
跡部の曲は3/3以降録音が使われていました。ミュージカルという形態において、歌唱部分を録音で対応するという選択に大変驚きました。どうしてその時点で中止・もしくは代役にできなかったのか、菊丸の不在同様に疑問が残ります。菊丸は存在が視認できない状態で公演を行い、また跡部は歌唱が無い状態で公演を行うという選択に一貫性が無く、運営側に対して信頼性が大きく揺らいでしまいました。原作もの(いわゆる2.5次元舞台と括られるもの)のミュージカルにおいて、原作のキャラクターを大切にせず(菊丸の不在)ミュージカルの部分も拘らない(歌唱の録音)ならば、一体何を軸に公演を実施し何を客に見せたいのか、杜撰で行き当たりばったりな対応に感じました。また、歌唱の録音を使用して公演に臨むことを公表しないことにも納得が出来ませんでした。公演に不備が発生している以上、一部演出を変更しています等、具体的な事を追及にせずとも何らかの告知は絶対に必要なことです。お金を払っている観客に対して、とても不義理な対応です。
●そうした菊丸の不在、跡部の録音歌唱を選択して行った凱旋公演について、跡部キャストの体調不良のために公演を中止したこと
菊丸キャストは怪我の影響でライトと声のみで凱旋公演実施を選択しましたが、その後、跡部キャストの体調不良により3/4の両公演が中止となりました。なぜでしょうか。理由を複数名の体調不良、とした凱旋前半の休演は仕方ないことと納得ができました。ただ、その後に起こった個人の体調不良が理由の公演中止については、キャスト側にも観客側にも、とても無配慮に感じられました。どうして個人を理由に公演を中止したのか、それが仮に“主役級”だから、“人気キャラ”だから、という理由であったなら、その“主役級”、“人気キャラ”という線引きはどこにあり誰が決めるのでしょうか。不在を許容し公演を続行するのか、不在を受け入れず公演を中止とするのか、それらを人気という不確かなもので判断しては絶対にいけないと思います。仮にこれが手塚であったら、もしくは日吉であったら、不二であったら、ジローであったら、そうした時にどこまでは不在を許容せず、どこからは許容するのでしょうか。それに対して明確な答えがあるのでしたら良いなと思いますが、現状でそれは見えてこず、3/4の代替ステージの挨拶時にも触れられていなかったので、今後の公演実施に対して凄く不安が残りました。今回は菊丸役・跡部役それぞれにおいて声だけの出演、公演中止といった対応をとられていましたが、例えば今後、何らかの理由で本キャストが舞台上にたつことが難しくなった時、アンダーキャストで代役を選択するのか、それとも公演中止を選択するのか、そうした今回に類する時の判断基準が不明瞭で、それをキャラクター人気/キャスト人気といった所で判断されるのは絶対に避けるべきと強く思います。関東氷帝公演の対応の非難というよりは、今後に対しての警鐘の意味合いが強い意見です。
髙橋怜也さん演じる跡部景吾が舞台に立てなくなった時、関東氷帝公演を中止としたことで、今後同様の事が起こったときにどういった対応を取るのか比較されてしまうと思います。例えば、跡部の時は休演したのに幸村の時はアンダーでやるのか、といった意見が出るだろうという事です。実際今回の氷帝期間中も、跡部以外は大丈夫なのにどうして中止しないといけないのかといったナーバスな意見は耳にしました。氷帝公演に対しての意見は、跡部以外は舞台に立てる状態であるという事を3/4代替歌唱ステージにて観客に示したことによる弊害です。
公演中止について、実際には個々人に起因する休演となった場合でも、あくまでもそこは隠すべき事柄と思います。客側に(〇〇のせいでこうなった)と感じさせないために、何も語らずに結果を伝えるべきです。それが客側のマイナスな目線やバッシングからキャスト個人を守ることに繋がると思います。それは運営サイドが請け負う緩衝の役割であり健全な興行実施において倫理的に尊重されるべきことではないでしょうか。
また、劇団という形態をとっていないテニミュにとって、芸能事務所に所属する役者は他社の商品という位置付けと思います。そうした立場のキャストに、公演自体の実施可否の責任を載せてはいけないと思いました。彼らが1商品として背負うべきは自身の出演可否までではないかと思います。本人の体調不良や怪我、不祥事、事故といったことは可能性として起こりうることで、そうなった場合に公演への出演を見合わせることまでがキャスト個人の責任の範疇のように思います。個人に起こったことで公演が中止にならないようにリスクを分散し、適切に公演を完遂することが運営として絶対的に求められる部分のように今回の件で強く思いました。今後、そうした点も意識し注力して頂ければ良いなと思いました。
●ベンチのセットがすごく良かったです。やっとコーチベンチが来たと思って嬉しかったです。今後、背もたれに座る赤也が見られるのかなと思うと楽しみです。ただ、今までのベンチたちより大きい上に存在感があるので、アクロバティックの着地先の方向にはベンチを置かないであげて欲しいと思いました。舞台上をネット装置で前後に割った時、奥コートはネット回転電源用ケーブルがあることで、足場が悪く大きな動きに向かない分、手前コートでやる選択が増えると思いますが、そうした時に、側転の先にあのベンチがあったら多分怖いと思いました。着地の方向に出っ張った物があるかないか、そうした要因一つで、伸び伸びとした動きが出来るか出来ないか変わってしまうと思うので、位置関係の調整で解消できるのであれば、配慮してあげて欲しいと思いました。センターから氷帝ベンチ側へアクロバットするときの岳人など、もっと広々とのびやかにできるよう意識してもらえたら更に良いなと思いました。
●榊の台詞が録音で目立ちすぎると思いました。スーツの後ろ姿まで見せて存在を表現するなら、なぜ竜崎すみれが居ないのか、そこの線引きを人気不人気もしくは性差等ですべきでないと思いました。勿論そのようなことはないと思いますが、そう思われるような隙は見せない方がいいように感じました。
榊から過去キャストの声がすれば、勿論それを知っている人は嬉しいと思いますが、従来のテニミュから大きく舵を切り独自路線で公演を作る中で、果たしてそうした旧キャストの起用が本当に必要な事か疑問でした。生の舞台で試合を行っている中、録音の声が流れてくることはとても違和感で一種のストレスとなります。もちろんかつての跡部キャストが氷帝の監督である榊の声を当てることは情緒的ではありますが、それによって集中が途切れるようであれば演目としてはマイナス面の方が大きく、声を目的として観に行こうとはなるとは考えにくいので商業的にもリターンがあまり無いように感じました。
以下、歌詞・曲についての意見・感想です。
●S1ラスト 手塚と跡部の歌い合い中のリョーマのカットインについて
リョーマは、"俺に負けを与えた" という言い方は絶対にしないと思います。あれだけ負けず嫌いの人は、たとえ事実だとしても、自分が返せなかったショットのことをあれほど高らかに歌いあげるはずがないと思います。聞いていて凄く違和感がありました。リョーマが関氷のS1試合中に「俺に勝っといて負けんな」という台詞をベンチからコートにいる手塚に向けて投げかけるまで、大石と不二を除いた青学テニス部の中で、(リョーマと手塚が試合をしたこと)/(手塚がリョーマに勝ったこと)は表立って認識されていないものです。高架下の試合で手塚がリョーマに対して零式ドロップを打ったことは、原作中では結局青学に対しては語られておらず、リョーマが補欠戦の冒頭でラケットヘッドが30㎝下がった零式を真似て打つまで、そこでやっと鋭い人(桃城など)が、手塚-リョーマ戦で、手塚部長は零式ドロップを打ったのかと気付くレベルでは無いかと感じています。校内ランキング戦を戦い、オーダーでシングルスの座を奪い合う彼らは勝ち負けに対してはぺらぺらと人に話したりはせず、敗北は人によっては隠したり、凄く悔しがるものと思うので、もう少しデリカシーをもって歌詞を書いてあげてほしいと思いました。
●S1手塚と跡部の歌い合いについて
〝油断のないテニス〟というワードを跡部に歌わせた意図が最後まで分かりませんでした。手塚の代名詞でもある「油断せずにいこう」を想起させる歌詞と思います。それを跡部に歌わせる意味や狙いが最後まで分かりませんでした。理由無くそうさせたはずがないと思いますので、今後、説明の機会があることや、伏線として回収されることに期待します。
●凍てつくのか溶かすのかハッキリしてほしい
円盤入手後に歌詞カードを早く見たいと思いました。
●イニシアチブ 滅びゆけ〜のあとに、初日―岐阜(?)間で、跡部のショット(インパクト音)が1回増えていること
ラリーが完成していない状態で初日に臨んでいたのでしょうか。ラリーは試合展開に直結するシビアな部分なので大事にしてほしいと思いました。1度しか劇場で観劇出来ない人もたくさんもいます。何回も見ることを前提に演出や振りに修正を重ね最終的に間に合わせる事と、仕上げたものを更により良くブラッシュアップする事は違います。ショットの追加は前者です。今回においては立川公演が映像化され記録として残ると思います。追加・修正される前の不完全なものが正史として残るという事です。重く受け止めてほしいです。凱旋公演との編集が可能であれば、切り貼りして本来あるべきものを残してほしいと思いました。
●跡部ソロ曲【イニシアチブ】について、S1の跡部の狙いについて
派手な大技だけでなく、試合運びについてやっと重点をおいた曲が来てくれたととても嬉しかったです。ただ、歌詞が(致命傷)(朽ち果てろ)など、本来原作で描かれていた跡部のゲームプレイとかけ離れていて期待した分、落胆も大きかったです。また、破滅ヘの輪舞曲の説明で始まってしまうこと、主導権は俺(跡部)だという曲が、手塚のショットに対して跡部がリターン出来ない形で終わるなど、全体的にバランスが悪く、何を言いたい曲なのかぼやけていて、センスが無いなと思いました。
また、イニシアチブのあとに「そろそろ攻めないと致命傷になるぜ、さぁ焦って攻めてこいよ手塚!」の台詞が無いことで、跡部の本来の狙いが分からなくなっています。跡部の狙いは本来、脚本の段階で明確に描かれているべき部分のはずです。跡部は手塚の腕を壊したいわけではなく、腕に爆弾を抱えているから手塚は持久戦には乗ってこれないはず、だから焦って攻め急ぐしかないだろう、と手塚の焦りを誘っています。見え見えの持久戦の空気を提供することで、手塚の戦術の選択肢を減らし、攻め急ぐことでミスも生じるだろうと精神面が起因の優位性を持とうとしているという事です。自分が主導権を握って〝試合を優位に進めること〟が跡部のS1の狙いで、高橋さんの演技はそれが凄く表現されていると思いました。
だから手塚が持久戦に乗ってきた時に、原作で跡部は(馬鹿な、あえて持久戦に挑んできやがるとは)と感じています。手塚が持久戦に乗ってくること自体が、テニスプレイヤーのセオリーからも跡部の展望からも外れている、言うなら(馬鹿な)行いだということです。その後跡部は、持久戦を選択した手塚に、マッチポイントまで追い詰められてしまいます。思い通りの試合展開にならなかったどころか、相手は不得手で自分は得意なはずの分野(持久戦)で、敗北寸前まで追い込まれ、手塚の焦りを誘うはずだったのに、手塚が跡部の誘いに乗らなかったがために、跡部に焦りが生まれて逆に追い詰められるという本当によくできた展開で面白い試合のはずです。そうした試合の展開が今回の関東氷帝公演からは無くなってしまっているように思いました。メンタルスポーツであるテニスにおいて、本来最も重要であるはずの跡部-手塚間で行われている駆け引きが無くなっており、とても残念でした。表面上だけを見せる大味な仕上がりになっているために、ストーリーに深みが無くなり面白くなくなっていました。
4th 関東氷帝公演を見た複数の友人から、どうして手塚が故障した後の跡部って嬉しそうじゃないの?と聞かれることがありました。跡部が嬉しそうではない理由は、跡部は手塚の腕を壊したいわけでも、それを狙ってたわけでも無いからですが、今回の公演で見える範囲だと、S1の跡部はそういう風(手塚の故障を狙って試合を展開した)に解釈されてしまい、そのために原作にある台詞(跡部の奴ちっとも嬉しそうじゃねぇ)と齟齬が生まれ、見ている客側に疑問が生じてしまうんだなと思いました。跡部役の高橋さんは、S1の試合が跡部の思い通りに進まなかった驚きや悔しさや葛藤を演技で表現して、手塚への思いの移り変わりもすごく丁寧に表情で作ってくれていたと思いました。ただそれは私自身が跡部にフォーカスしているから見えてくる部分であったり、元々原作という下敷きがあるから理解が進んだ部分なんだと思いました。そうでない友人たちのような方(元々テニミュ/テニスの王子様の見地があっても氷帝に対して思い入れの少ない層)にとっては、原作から欠けた台詞には当然気づけず、本来の原作の内容を誤認する脚本になっていることにも気づかず、賞賛されるべきキャストやキャラクターやストーリーに対して疑問を生じさせてしまい、本来あれほど面白い屈指の人気試合のストーリーがよくわからない状態になっているんだと思いました。そのような公演が、試合が、観客の大多数に提供されていることが、すごくすごくつらかったです。
間違えてはいけないのは、持久戦というフィールドをこれ見よがしに出したのは跡部ですが、それを選んだのは手塚であるという点です。本公演はそこを誤解させる作りになっています。ここが本当に観ていて違和感しかなく、気持ちが悪かったです。
未来で榊が言うように、跡部は好んで相手を平伏させるテニスを選択していたそうなので、相手の実力よりも自分が上回っていることを示すことを重要視して(もしくは好んで)いるんだと思います。であれば、相手が怪我していたから勝ったという勝利は、本来跡部の中で楽しくはなく価値としては低い筈です。ただ、それは跡部個人の心持ちであり、氷帝としての立場がどのように作用するのか、そうしたことまで考えてほしいと思いました。高橋さんはアドバンテージサーバーと言われてから〜手塚がサーブを打てないところまでの表情が凄く作り込まれていて、上記のような部分も考えて作って下さったんだろうなと感じました。手塚は焦って攻めてこないといけないし、それをしない手塚に対して最終的には敬意でもってラリーに応じたけれど、そこに行き着くまでには跡部の中でかなり思いの変遷があり、それを演じてくれているように見えました。
持久戦をするぞという跡部の演出は結構ブラフであり、当初の跡部の試合プランとしてはこれ程の持久戦をやる予定ではなかったと思います。手塚が持久戦を選択した時の跡部の心情として、(なに愚かなことをやっているんだ-①)という手塚への思いもあると 思います。持久戦に乗ったら腕を壊すことは分かっていたはずです。ただ腕の状態を押して進めた持久戦でここまでの試合をする手塚に、跡部の中で畏怖が生まれたかも知れない、自分の読みの甘さに苛立ちを感じたかも知れない、ここで1番跡部が気持ち的に手塚に敗北を感じたはずで、手塚に対してなのか、自分に対してなのか、そうした焦燥期-②があると思います。
そのあと手塚の肩が壊れてしまうけど、跡部が全く嬉しそうじゃないのは、上記の通り別にそれを狙っていたわけではないからです。どちらかと言えば自分の思い描いていた展開と真逆なことが過程で起こっていたのに、結果として自分に利するようになったという形です。試合が中断された時点の跡部は、その点にまだ納得がいっていないのではないかと思います。
そのあとに手塚への失望③と手塚への礼賛④が、跡部の中に立て続けに発生するために、上記の前提が凄く大切なんだと思います。肩が上がらず威力の無いサーブを打つ手塚に対して、だから手の内(持久戦)を見せていたじゃないか、結局俺の眼力通り、お前がフルで戦えもしない持久戦に乗ったから肩を壊したじゃないかという手塚の見通しの甘さ-③。と、それを経た上で、こんながむしゃらさを持って試合を成り立たせる、勝つためだったら零式まで打ってくる、今、チームにたった一つの白星を持ってくるためにショットを重ねる部長としての姿、そして怪我を抱えていても、自分に切迫してくるプレイヤーとしての強さ-④。それ④は跡部の想定を超えた光景で、だからたとえこの試合がどれほど続いたとしても俺も最高の力を1球1球に込めるし、それは俺にとって無二の試合になるという流れと理解しています。
予期できる出来事を引き起こしているにも関わらず、予測以上のパフォーマンスをし続ける手塚に対して、跡部が敬意を持って試合を続けているから、私たち観客のうちの"誰か"は、(この試合ずっと見ていたいな)と呟いてしまうんだと思います。私たちが(見ていたい)のは、上記の跡部の思いの乗った試合で、手塚の部長としての意志とプレイヤーとしての意地を感じる至高の試合な筈と思っていました。関東氷帝S1は熱い試合で心が震える試合ではありますが、今回描いたミュージカル程、痛々しい試合では無いのではないかと思います。
死闘ではあるけど至高の試合で、死に物狂いではあったけど恨みつらみは無い、体力を気力が上回った尊ぶ試合で昇華されたものと原作が表現しているものを、4thで、ミュージカルで見た時に、二人の部長がお互い辛そうで、しんどそうで、そこに原作との乖離を感じるから、どうしようもないけどモヤモヤしました。マジで4thの、このs1を、ラリーをいつまでも見ていたいの?って、観客のモブに対して、初日も思いましたし、岐阜でも思いました。
ただ、こうした感想も岐阜公演時点でのもので、凱旋公演はキャストの演技について意識を持って行けず、体調について意識を割かれることが多かったので、公演を実施したこと自体がそもそも残念でした。奇しくも、4thが描いた痛々しく辛いS1の試合が、現実と重なることで化学反応を起こしましたが、それは本来の演目の姿ではなく、本来の演技プランからも外れていたように思います。公演実施を美談にしないでほしいと思います。観客からの一時の非難を受けることを怖がるよりも、キャストの心身の健康を第一に考えて、原作をリスペクトする気持ちを忘れないでほしいと思いました。今後の健全な運営に強く期待します。これからも頑張ってください。
新テニミュG10キャストを中心に好きな寿司ネタを調査した件
新テニミュG10キャストを中心に好きな寿司ネタを調査した件
(2024/4/29・追記)
新テニミュsecond stageのGenius10を見て、圧倒的に強そうで世界を戦う大人に感じたので、テニミュで親しまれ続けてきた例の質問(※好きなおにぎりの具)より大人志向なもので何か聞いてみようかなと思い、約1年ほどG10キャストを中心に好きな寿司ネタを調査してみました。(2022/4/1〜2023/7くらい)
新テニミュThird Stageも終わったので、一旦区切りとしてまとめます。
年末年始にお寿司を食べる時の参考にしてください。
《新テニミュsecond stageに出演したGenius10キャスト・Revolution LIVE 2022に出演したGenius10キャスト》を最優先し、新テニミュfirst stageに出演した高校生キャスト、1~3seasonのテニミュに出演したOB、新テニミュsecond stage・first stageに出演したキャスト、テニミュ4thに出演したキャスト、といった方にも機会があれば聞いてみました。
方法は口頭かリアルタイムのチャット形式のみ、手紙等では聞かず、配信の場合は無料で視聴可能な範囲でのみとしました(FC有料会員限定配信等では質問しない)。
《新テニミュsecond stageに出演したGenius10キャスト・Revolution LIVE 2022に出演したGenius10キャスト》と、新テニミュfirst stageに出演した高校生キャスト、1~3seasonのテニミュに出演したOB、新テニミュsecond stage・first stageに出演したキャスト、テニミュ4thに出演したキャストに該当する方の計15名に回答頂きました。
聞いてみたキャストは以下の通り(敬称略)、出揃った回答はこんな感じでした。
佐々木崇、秋沢健太朗、大久保圭介、井澤勇貴、岡本悠紀、畠山遼、樫澤優太、丸山龍星、星野勇太
森山栄治(1st season 桃城武/初代)、兼崎健太郎(1st season 真田弦一郎)、平井浩基(1st season 加藤勝郎/5代目)、石田隼(3rd season 大石秀一郎)、桐田伶音(4th season 黒羽春風)、加藤和樹(1st season跡部景吾)※2024/04/29追記
一覧 氏名:好きな寿司ネタ(聞いた方法/リアクション)
佐々木崇:いくら、中トロ、サーモン (君からのBirthday Card 配信アーカイブあり/少し悩まれてから回答)
秋沢健太朗:うに (対面/即答)
大久保圭介:炙りチーズとろサーモン (対面/少し悩まれてから回答)
井澤勇貴:えんがわ (インスタライブアーカイブあり2022.7.27当時/即答)
岡本悠紀:コハダ (インスタライブアーカイブ無し/一問一答形式/即答)
畠山遼:〆鯖 (radiotalk内『畠山遼の居場所』アーカイブあり/他の寿司の話もたくさんしていただけた)
樫澤優太:ブリ、えんがわも捨てがたい (対面・質問を聞いた瞬間に破顔してかなり悩まれていた、絞り出す感じでブリと答えた後にえんがわも追加された)
丸山龍星:サーモン、中トロ、(うに) (インスタライブ/アーカイブ無し/サーモンと中トロをあげた後にうにも好きと追加された)
星野勇太:帆立。か、いくら。か帆立。(帆立は生) (対面/かなり悩まれていた。結局帆立に着地した)
森山栄治:ブリ (対面/ちょっと悩むもすぐに回答)
石田隼:納豆まき(radiotalk内『畠山遼の居場所』アーカイブあり/即答/他の寿司の話、サイドメニューの話もたくさんしていただけた)
兼崎 健太郎:まぐろ、赤身 (対面/即答)
平井浩基:えんがわ。出来れば炙りたい。あと子持ち昆布。 (対面/即答/子持ち昆布を置いているお店が少なくちょっとレアなんですよね、とお話しいただけた)
桐田伶音:シメサバ インスタライブ(アーカイブあり2023.7.18当時/即答)
加藤和樹 :サーモン (対面/即答/良い声)※2024/04/29追記
※アーカイブあり…アーカイブが残っているのをその当時に確認したのみで、最新情報ではありません
1番人気はえんがわ、次いでサーモン、うに、いくら、ブリといった感じでした。
楽しかったです!
みなさまも素敵な寿司ライフを🍣
立海後編に向けて綴った手紙
本日の宮城で後編初めて見てきます
それにあたり厄落とし的に現役の不二キャストである皆木さんへ送った手紙を公開
不二周助は難しい
送った時期は後編が始まる前でした
見える範囲であまり不二の感想がこなくて怖いけど楽しみ
*
こんにちは。初めて皆木さんにお手紙を書きます。ミュージカルテニスの王子様全国大会立海前編公演お疲れ様でした。横浜アリーナでの運動会もお疲れ様でした。前編の千秋楽から短い期間で、すぐに運動会という過密なスケジュールをこなされたかと思いますが体調を崩されたりしていませんか。どうかお体には気をつけてください。
今回ミュージカルテニスの王子様の話がしたくてお手紙を書きました。会場でのアンケートという媒体以外で、現役のキャストの方にお手紙を書くのは初めてです。9月29日に前編の千秋楽が無事に終わり、皆木さんが演じられる不二周助の試合としての出番は終わったのかと思います。本当にお疲れ様でした。
試合が無く幕前のソロがあった氷帝戦、開演初っ端の試合で敗戦を演じる四天宝寺戦、背水の状態から勝利する立海戦s2と、全国大会を戦う不二周助は常に人の目を集める役どころのように思います。まだ後編はありますが、ここまで3演目1年以上不二周助を演じてこられていかがでしたか。どんな風に不二周助を演じましたか。舞台上で不二周助とピントが合う瞬間はありましたか。不二周助は皆木さんに何を伝えてきましたか。
意地悪な質問がしたいわけではなく、率直にどう感じていらっしゃるのか聞いてみたくて書きました。質問に挙げたような事を考えたりはしない、不二とピントが合うかなんて知らない、という答えもあるかと思います。架空のキャラクターでしかない不二が、何を伝えるもあったものではないと思われるかもしれません。
ミュージカルテニスの王子様のファンが求める不二周助はとても抽象的で言葉にしにくく、演じるのは本当にやりにくいキャラクターなのかなと思います。不二周助とは、ミュージカルテニスの王子様に足を運ぶファンの殆どが一度は好きになったり、青学の中だったら一番好きと言われたりする、広い範囲から人気のあるキャラクターのように思います。先日の原作の人気投票でも1位になりました。その分、各個人が好きだと思う不二には差があり、スリルを求める不二が好きだった人からしたら闘争心をむき出しにする全国以降の不二は好きではない人も居るのかも知れません。それぞれが求める不二は異なっていて、潜在的なファンを含めた不二を支持する人の総数がとても多い故に、全ての人にドンピシャな不二を体現するのは不可能のように感じます。不二を好きなファンの間ですら、不二の輪郭は不確かで、今までに不二を演じてきた人たちですら不二を掌握した人は誰も居ないように思います。
ミュージカルテニスの王子様は、ミュージカルと冠してはいるものの、観客の視点や評価の目線は、歌唱やダンスだけではなく、キャラクター性という正解のない項目にも向けられていると思います。皆木さんご自身は不二周助をどんな人だと思いましたか。不二周助に対する思いはどんなものがありますか。その思いが変化するときはありましたか。オーディションに受かったとき、舞台に立って試合をしたとき、喜びはありましたか、プレッシャーを感じましたか。ご自身が不二周助を演じた後、紙面上にいる原作の不二周助は恐ろしく見えましたか、それとも頼もしく見えましたか。
こうした曖昧な質問や要望を散々浴びせられた1年半だったりしましたか。
皆木さんがミュージカルテニスの王子様の事を嫌いになっていないか凄く心配しています。勝手な事を言うばかりのテニミュのファンが疎ましくなってはいませんか。勝ち取った筈の不二周助という役柄が枷になったりしてはいませんか。
私自身は氷帝学園のファンで、皆木さんの熱烈なファンではありません。不二周助のファンでもありません。また、正直にお伝えするなら全国氷帝戦での不二周助の記憶はほとんどありません。ヘビーレインの振り付けがあまりにダサい事、あの時点で不二周助に歌わせるならジャージではなくユニフォームで歌わせてやるべきだと運営には意見を散々書きましたが、不二周助として皆木さんがどう演じられていたのかの記憶は曖昧です。ただ続く四天宝寺戦立海戦よりも不二周助の周りの空気は軽く、少なくとも見ていて息苦しさは感じなかったような気がします。
全国氷帝戦の客層は氷帝ファンが多いものです。全国氷帝で寄せられた意見の多くは、全国氷帝という演目に向けてだったのかもしれません。氷帝ファンから見た3rd全氷は、手放しに良いものだったと賞賛できるものではまるで無く、いち氷帝ファンの私からしたら、主役校である青学、ひいては不二周助に対して意識を割く気持ちの余裕がありませんでした。
そんな氷帝戦に続く四天宝寺ではS3で白石と試合があり、もしかしたらそこで氷帝公演を超える意見が皆木さんに届いたのかもしれません。四天S3は不二ファンの目線だけではなく白石ファンの厳しい目線も受ける事になります。四天はテニスの王子様の物語の後編からしか出ませんので、人によっては5年ほど待ち望んだ白石蔵ノ介です。
待望で受け入れられる四天宝寺、そしてそれに続くのが帰還した立海と、熱狂の敵校が続き、相応の人気キャラクターと戦わなくてはならなないものです。その分、率直な意見や要望が皆木さんのお手元に届いたのでしょうか。
私は四天宝寺公演も立海公演もそこまで回数を重ねたわけではないので、一概には言えませんし、あくまで私が観た範囲に限りますが、皆木さんが伸び伸びと試合をしていた日はとても少なかったように見えました。一つ一つのファンの声や周りの声を聞いてそれに振り回され、どうにか応えようとしているようにも見えました。そうした奮闘や足掻いているようなお姿から、皆木さんご自身がとても感受性が豊かな方なんじゃないかなぁとも思いました。
どうして四天が勝てないのか、どうして仁王が負けるのか、そうしたファンの声は雑音です。青学だけが勝ち進んでいく中でライバル校のファン達はそうした引っ掛かりで、どうにか納得しようと落としどころを探します。でもそれは勝ち進んでいく不二周助には関係のない事です。全国で青学は勝つしかないし、決勝戦で不二周助は勝つしかありません。そこを疑問視するのは敗者の戯言で、勝者が省みる必要はありません。
勝ったのは僕だという顔をして切原を真田を幸村を見ればいいと思います。手塚が7人いると言われた立海を2人負かし、真剣勝負をせずに足を潰した真田が死に物狂いで獲った白星をカウンターという自分の土俵であっさりと獲り返してみせ、不二ありきでオーダーを組んで絶対に勝てない相手を用意したと宣ったくせにお前は読み逃したと幸村を笑ってやったって良いはずです。
ファンの声も演出家の声も同じ役をやった先人の声も対戦相手の声もチームメイトの声だって、聞かなくて構わない。不二周助でいる限り、皆木さんはそれら全てが許される立場にあるとすら思います。それは話し合いや相互コミュニケーションをしなくてよいという意味ではなく、それらをしっかり行った上で、出た意見全てを無視するという選択肢が不二周助にはあるということです。
私は先程書いたように氷帝学園のファンで、もっと言うなら跡部景吾のファンです。皆木さんがテニミュに出ていなければこのようにお手紙を書くこともありませんでした。皆木さんが不二でなかったのなら、私は皆木さんを知らないまま過ごしたと思います。全国大会立海前編が終わり、ミュージカルテニスの王子様の中で自分の出番が終わったという思いがありますか。
青学のキャストは現行の青学としてミュージカルテニスの王子様に出ている間は殆ど他の仕事や舞台には出演しませんね。一度ミュージカルテニスの王子様から離れ、もう一度対戦相手として戻って来る、もしくは運動会やドリライで戻って来る他校キャストたちは、離脱の間にそれぞれ別の仕事をします。
今まで、テニミュというある種、一律の扱いと認識をされていた立場から、それぞれ仕事があるか無いか売れたか売れないか客が集められるか集められないか評価される環境に変わります。青学キャストはテニミュを卒業してからでないと、それを体感する機会は少ないのかもしれません。歓声があるとかブロマイドが売れたとかランダムのレートが高い低いといった、テニミュという狭い井戸の中で行われる比較ではなく、人生と生活に直結していく評価が今後はされていきます。皆木さんはテニミュがデビューではありませんから、こうしたお仕事に関する知識はすでにお持ちかと思います。
しかし、テニミュという括りに所属し、つい2ヶ月前までは同じ経歴だった同輩たちと、これから先様々な部分に差がついていくことはとてもシビアなことです。
恐らく今後テニミュで受けた以上の意見や批判や激励を、受ける機会は無いのではないかと思います。テニミュを離れれば、この手紙のようなファン以外からの声や要望、皆木さんを取り巻く雑音は減っていき、皆木さんのことが好きで追いかけている方の言葉や意見が多く届く環境になります。現状のような皆木さんのファン以外の目にこれだけ晒される状態は稀です。本来ファン以外は皆木さんの事を見ません。
しかし今に限っては、学校のファン、テニスの王子様のファン、テニミュのファン、不二周助のファン、そうした多くの人が現役のキャストである皆木さんを見ます。
卒業して行くキャストを追う人は、テニミュへ通う人の総数から考えたら決して多くはありません。テニミュを見ている私たち観客のほとんどは、皆木さんの事を不二周助としてしか知らないまま、皆木さんを見るのをやめます。それは皆木さんに限った事ではなく、ほとんどのテニミュキャストに共通する事です。あの代では誰が一番売れた、同じ代でもこの人は今何をやってるのか仕事があるのか知らない。テニプリパーティーの一言コメント欄を見ながら、テニスの王子様のファンの間でそうした会話をしたのは私の記憶に新しいです。
3rd幕引きまでと思えば、私が皆木さんを見るのもあと半年と少しほどしかないのかもしれません。ただ卒業後も役者としての仕事を続けて欲しいと思いますし、できるなら何をしているのか耳に入ってくる卒業キャストになってほしいと思っています。
また12月からは全国大会立海後編公演が始まります。後編の核である越前リョーマと幸村精市のS1を経て、青学の優勝でミュージカルテニスの王子様の物語は終わります。
不二周助はどうして記憶喪失の越前の元に駆けつけなかったんでしょうか。S3で負傷しながら死闘を演じた真田はライバルズとしてコートへ行きました。かつて紅白戦をして雨の中で打ち合い勝負がつかないまま、手塚不在時のS1の座を奪われた不二は、どうして越前の為にコートに行かなかったと思いますか。どこのコートだか知っていますか。越前が記憶を取り戻す為に桃城を筆頭に打ち合いをしたコートが、全国大会会場のどこのコートだったか知っていますか。
こんな事は本編には関係のないどうでもいい小さな事ですが、こういう小さい事を繋げていった先で何かが差を生むかもしれないと、テニミュを見ている身からしたら期待します。
ぜひ調べてみるか、どなたか知ってそうな方に聞いてみてください。それが分かったからといって、すぐに何かが変化するわけでないと思います。ですが、越前が踏んだコートの砂、真田と跡部が並んで歩いたコートまでの道のり、そうした情景に少し色がつく感覚を知って頂ければ嬉しいです。
不二がそのコートに行かない理由は、S2の試合が終わったばかりだからというだけでしょうか。青学を優勝に導きたいはずの不二周助は、ゴールデンペアの試合を眺めて、幸村と金太郎の勝負を眺めて、何に想いを馳せたと思いますか。コートの横でどんな風を感じていたと思いますか。
前編から後編の間に3ヶ月ほど期間が空きますね。ですが、後編の幕が開いて幸村と越前の試合を見る不二は、つい数十分前に試合を終えたばかりだということを見失わないで下さい。腕が紫色に腫れ上がっている手塚に、この大会が終わったらと勝負の約束をしていた事を忘れないで下さい。青学の優勝と、手塚との再戦と、越前の記憶と、幸村の動向と、自らの勝利の余韻と、何が不二周助の心を占めていたと思いますか。
一足先にS2の試合を終えたことで、不二の出番が終わったという気持ちが少しでもあれば、それは捨ててください。皆木さんが思う不二周助の心の中を作りこんだ上で、ベンチに座って横顔一つ、足の組み方一つで演技をしてください。ライトが当たっていなくても、歌がなくても、動きがなくても、会場のファンの目は不二周助を見ます。重ねての言葉になりますが、それほどの数の目に見られることは本当に貴重なことです。ここで経験を積んでください。限界のラインを引かないで下さい。前編で試合をした事でやりきったと満足しないでください。
3ヶ月にまたがる60回近いロングラン公演で、30人規模の座組の中で4人目にクレジットされるキャラクターで、2000人規模の劇場が連日埋まる演目を、今後の人生でいったいどれだけやりますか。
いくら2.5次元舞台と呼ばれるものが溢れようと、テニミュでしか味わう事のできない辛さや経験があると思います。それをご自身の糧にして舞台上で発奮してください。バウで挨拶するとき、もっともっと前に出てやってください。越前リョーマも幸村精市も遠山金太郎も跡部景吾も白石蔵ノ介も食ってしまって構わないんです。不二周助は傲慢です。皆木さんの不二は理性的で、どこか危うさに対して踏みとどまるように見えました。皆木さんご本人のご気性が表れての事なのかどうか分かりません。ただあなたはあの場で不二周助ですし、全世界で今、不二周助を名乗れるのは皆木さんと甲斐田ゆきさんの他にはいません。
私は皆木さんがやろうとしていた不二周助は好きでしたし、もっと見たかったと思います。全国氷帝でももっと皆木さんを見ていれば良かったと思いました。
だから今の時期に手紙を出しました。全国立海後編で不二周助をどう完結させるのか、考えた答えを舞台の上で見せていただけたら本当に嬉しいです。東京公演初日に間に合わせてください。凱旋公演に向けて帳尻を合わせるようでは、目指すものにも到達点にも差が出ます。
全国大会決勝戦はテニスの王子様が完結した最終回の物語です。全42巻、連載期間9年の最終回です。その最終回は58回ありません。凱旋の大千秋楽が最後ではありません。初日の幕が開いて幕が閉じるまでの間に皆木さんが思う不二周助を完結させてください。
劇場の板の上でそれが見れる日をとても楽しみにしています。
期待と敬意を込めて。
*
テニミュの跡部に求めるものとは
先日ずっとお会いしたかった方とお茶を飲む機会があり、全立前編観劇後にお喋りすることが出来た。色々かいつまみながらテニスの話をしたけど、その中でどうしても3rd跡部の話が頭に残っている。
関氷の幕間に伝染した痺れるような興奮のこと、ドリライ2017のノーウィッグ練習シーンにキレたこと、昨年の夏が辛くて辛くてどうしようもなかったこと。次のドリライではしゃげるか不安なこと、3rd跡部が上島氏にとって待望の跡部だったと予想されること。
最後の待望の跡部論は、私にとっては衝撃的で目からうろこが落ちた。3rd跡部が何故ああも手ごねで愛されて指導を受けて優遇されてあれで良しとされるのか。その背景が分かった瞬間だ。一年越しでやっとあのクソみたいな全氷の内情を知った。
私は1st全氷という、かつてのテニミュの跡部を取り巻くあれこれを、知識としてしか知らず、それが現代まで繋がっているなんて考えもしなかった。
彼は跡部にならなかった人だ。私が3rd全氷の跡部にアプローチするときに参考にしたり比較したりする範囲は、今までの跡部として板に立った人や、原作を基準とする自分の中にある跡部像だ。あんな事は語られない歴史の1ページで、それが現代の跡部に影響があるなんて思っていなかったのだ。
岡山外潤氏は踊れる人だった。
ああそうか、だからか。2008年からやりたかった跡部なのだ。あのころからやりたくて出来なかった事を10年越しで今やってるわけだ。気の長い話だ。そりゃはしゃぐわ。そりゃそうだ。上島先生はずっとずっと踊れる跡部が欲しかったのか。
加藤和樹という体現者の後に、別方向の跡部が欲しくて、しかし実らず、久保田と井上を代行に立て、さて2ndと思えばあの奇跡の造形のtnが現れ、また思い描く方向に舵を切れず、ライバルズのみの跡部は恐ろしいほどに実験的で、客も作る側も向き合い方が少し違った。だから求めた跡部を小沼で造ろうとはしなかった。そして3rdだ。三浦が来た。もう笑えてきて、諦めた。
それがしたいなら無理だ。私がどう読み解こうが無理だ。周りがどう奮闘しようが無理だ。話が合うわけがない。だってあれで良いんだろう。あれが良いんだろう。あれがやりたかったんだろう。他の全てに差し置いて、ダンスが優先されるという事だ。ダンサー由来の踊れる跡部とはそういうことだ。歌唱よりスタイルより外見より演技より、動けることが優先される。他の要素は最低限出来ていれば構わないという事ではないか。あれが欲しかったんだろう。くそったれ。
ダンサーと役者の垣根の低い人が苦手だ。踊れる事≒動ける事なので、動けるに越した事はないけれど、私が見たいのは跡部景吾だ。だって、何を一番頑張りますかってなったときに、ダンスを一番頑張りますってわけでしょう?それで射止めた跡部役だし、それが求められる跡部なんでしょ。そしてそれが当代においては正しいんでしょ。でも私にとってそれじゃ困る、板の上で跡部景吾に近付こうとするとき、そのツールがご自身の得意分野であるダンスじゃ困る。
所作なら良い。動きのキレなら良い。そうした一つ一つには思考が付随する。しかし、出来る力で身体を使ってダンスをする事は跡部にリンクしない。ダンス以外ももしかしたらそうで、圧倒的歌唱力で跡部を射止める人が今後いるなら、私は今回と同じ思いを抱くのかもしれない。自らの得手で対象を表現しようとするとき、それはもう私の中でアクターではなくアーティストなのだ。
諏訪部氏はかつて跡部景吾の名義でCDをリリースする中、キャラクターとしての跡部がこう歌いあげるだろうかという葛藤があったと語っている。あの諏訪部氏ですらそう逡巡するのだ。いわんや若手俳優をば。しかしそういった思考の軌跡は見られず、少なくとも3rdでは、アーティスティックな跡部が正統とされた。その跡部が見たくて足を運ぶ人も沢山いたんだろう。私は開幕以降にチケットを増やしはしなかった。
アーティストとは何か。芸術家か自己表現者か。彼らによって作り出される三次元の跡部景吾。多分自己がいらない。跡部の装いで自己表現なんてして欲しくない。アーティストってめちゃくちゃ個人だ。アーティストが見たいなら個展に行けばよくない?私は役者が見たい。ひたすらに演技が見たい。現世で跡部に成り代わる為に、どう試行錯誤したのか思考が見たい。対話がしたい。ダンスが下手でも歌が下手でも動きが硬くても何でもかんでも、演技に理由があれば恐らく私は構わない。
そこの理由より優先されるものがあっては駄目なのだ。跡部景吾はこうだった、と教えて欲しい。納得させてほしい。私が一生立つことのない立場に立って、どう跡部景吾に成ろうとしたのか教えてほしい。
それが私の思う、演技で役者で特異点の義務だ。頼む。解釈して教えてくれ。いくら瞬間瞬間で跡部になっても、3次元にいる時点でキャストは分類するなら私たち側に過ぎない。跡部と自分をリンクさせるなんて、私からしたらおこがましい。キャストは“跡部景吾”と“それ以外”の“それ以外”に属している。だから跡部の姿で得意な表現なんてして欲しくない。
いつだったか、tnが跡部のウィッグを付けるときは王冠を戴く思いで被っていたと話していた。跡部に成るとき、そうあってほしい。別の立場のものに成り代わると思って欲しい。跡部景吾じゃない3次元の固体が跡部景吾をやる時点で恭しくあってほしい。立場が違う。私が重視するのはどれだけ異次元になれるか、別のものになってくれるか、現実にありえない跡部景吾という概念をどれだけこの世界にもたらしてくれるのか。自身のポテンシャルでもって人を惹きつけようとするプレイヤー精神はそこに必要ないのかもしれない。
じゃあ私は一体テニスの王子様というミュージカル演目に何を求めて何を観に来ているのか。踊れることに文句を付けて、歌えることにも文句を付けるなら、一体もう何を見に来ているのか。私はただひたすらに跡部に会いたくて、これは言うまいと思っていたけど、どうしたってテニミュを観に来ている。
『テニスの王子様』という演目の“ミュージカル”ではなくて、『ミュージカルテニスの王子様』という演芸(=テニミュ)を観に来ている。だから歌がヘタクソだろうと踊りが踊れなかろうともうでもいい。いや、どうでも良くはないのだけれど、どうにだってなる。成り立つ。ミュージカルは成り立たなくてもテニミュは成立する。
これを言ったらおしまいだ。テニミュのクオリティが上がっているとか、演目として業界で評価されて欲しいとか、そういう志にファンなはずの私が背後から石を投げている。
テニミュを見に行っているから、歌もダンスももうでもいいと言ってしまう。アイドルミュージカルかよ、結局顔が良けりゃあいいんじゃねえか、と揶揄される要因を言ってしまった。でもそれも違う。そういう訳でもないのである。顔が良いだけでは認められず、キラキラしているだけでも認められない。
私がテニミュで接したいものは、顔でも動きでも歌でもダンスでもなく、ただひたすらにキャラクターだ。そしてこのキャラクターというのは、自分にとって特別な、跡部景吾や忍足侑士たちを指していた。
【“跡部が出ている演目の”ミュージカルテニスの王子様】と【“跡部が出ていない演目の”ミュージカルテニスの王子様】の二つがあった。私は同じ【ミュージカルテニスの王子様】という連続した演目を見に行っているはずなのに、二つを見ている視点がまるで違う。
【ミュージカルテニスの王子様】に求めるものがまるで違っていたのだ。“”の跡部の部分は氷帝といってしまっても良いけど、全立後編にも文句を言う事がわかっているので跡部とした。だってまだフライヤーしかないのにもうすでにどこに目線合わせてんだって文句言ってる。
【“跡部が出ている演目の”ミュージカルテニスの王子様】を見るときの私は、もちろんのこと跡部景吾に会いに行っている。氷帝の夏を見に行っている。キャラクターに会いに行っているから、キャストに対してはどれだけキャラクターに近付いてくれたかが大事になってくる。だからこの場合は演技を重視している。
さっきから散々ガタガタ言っているのがこちらだ。答えは無いキャラクターに成りきる様を見に行っている。何より大切にしたいのはキャラクターへの理解度になる。キャラクターが何を考えて行動しているのか理解して、それを体現してもらう。それを受けて、私も跡部のことや氷帝のことをより深部まで考えめぐらせる。
全国氷帝のある日、私は越前リョーマにこうアンケートを書いた。『You still have lots more to work on.の中でstillhaveかlots moreにイントネーションの強さを入れて欲しい。まだまだだねの意味であるなら、Youよりもそちらに重きがおかれるはずだ』。これは私が自発的に気付いたわけではなく、人からそういう話を聞いて、そりゃその通りだと思って許可を頂いてアンケートに書かせてもらった。越前リョーマならそりゃそうだと思った。
そして、その翌公演、こんなもんはその日の聞こえ方だし、リョーマの前後の仕上がりにもよるし、円盤でどう収録されているのか私は知らないし、全く全く関係が無いかもしれないけれど、リョーマのイントネーションはstill haveに変わった。
泣いた。我に返って泣いた。越前リョーマが強くなってしまった。全国氷帝であんなに強かった越前リョーマがまた一つ真に近付いた気がした。
もう私は氷帝を名乗る権利が無いと思った。非国民だと思った(跡部王国の非国民ではなく、氷帝という学校に所属する上での蔑称としての非国民だ)。氷帝の校名を叫ぶ事も跡部の名前を呼ぶ事ももう私がしてはいけない事だと思った。私は氷帝の立場でありながら、テニミュの青学の越前リョーマに塩を贈って、勝ちを望んでいる跡部の首を絞めた。
このときの心情として、ミュージカルテニスの王子様という演目から見れば、リョーマの演技の発展という喜ぶ出来事である。実際、アンケートに書いたときはもっと良くなってほしいから書いているわけだ。決め台詞の発音のひとつに意味をしっかり携えて臨んでほしい、それが叶った。
しかし、実際それを聞いた私は、仁愛のリョーマが一味深くなったことよりも、それを受ける止める跡部の事を考えて、なんて事をしてしまったと思った。こんな事がしたかったんじゃない、跡部の勝利の可能性を一滴でも減らすような事をした。あんな事リョーマに言わなきゃ良かったとすら思った。もうミュージカルなんて毛ほども見ていないのが分かる。役者の出来栄えよりも、カンパニーの完成度よりも、氷帝に没入し跡部の傍らに立って物事を見ている。
このときの私は『テニスの王子様』という演目の“ミュージカル”ではなく、【テニミュ】という形態の演芸を、自らが選んだ氷帝という立場に所属して体感しているから、演目のクオリティよりも自らの満足を求めてしまっているのだ。
対して、【“跡部が出ていない演目の”ミュージカルテニスの王子様】を見ているときの私は、言ってしまえばとても気楽だった。前者のときほど、キャラクターを見てはいない。ミュージカルを見ている。これは娯楽だ。(じゃあテニミュはなんなんだよって話だけど)
だからそれが良かったあれがよかった彼が良かった彼はイマイチと、見て一瞬で分かることを喋って楽しんでいる。だから、他校キャストでは分かりやすく踊れる人や声の伸びがいい人が比較的好きだ。
お前が思うキャラクターはそれなのか、本当にそうなのか、なのにそのベンチワークか、お前はこの団体戦で何を任されているか知っているか、オーダーの読み合いを考えたか、お前は本当に勝ったか。こんな答えの無い質問の拳を振るう事もない。そこまでの答えを求めていないし、多分私側がそこまで氷帝以外を知らない。それだけのことを言えるファンの立場に私がいない。
だから、そこそこ上手くて気合の入ったキャストを各校各校で割りと好きになった。このとき私は比重としてはキャラクターよりも、テニミュキャストを見に行っているのかもしれない。だから良かった!と思うキャストの写真をご祝儀のような気持ちで買ってしまうのかもしれない。(3rdなら内村、木更津、佐伯、白石あたりが割りと好き。でもこの【割と好き】なんてものは、いつでもひっくり返る掌程度の軽い好意である)
踊れる事、歌える事の評価の対象はキャストで、他校の人にはそうした技術の完成度を求める。しかし自分にとって特別な学校(氷帝)で、特別な彼ら(跡部忍足を筆頭とした氷帝R陣)は、キャストである必要が無く、キャラクターであってほしいと思い、理解度を求める。前者の場合はキャストの熱に興奮したいが、後者の場合はキャストから何かを感じとって感動なんてしたくない。キャラクターだけに心を注ぎたい。私はもしかしたら三浦が跡部でなかったなら、テニミュキャストとしては彼をとても愛したかもしれない。
だがしかし彼は跡部景吾なので。そして私は跡部景吾のファンなので。だからこそ、跡部ファンであるからこそ、私は彼の跡部を手放しで愛することは絶対にしないし、三浦の跡部に対して図が高いと思う。
関氷では私はこんなにガタガタ言わなかった。関氷のブリザードを私は絶賛したし、その気持ちは今も変わっていない。あの時は跡部をやる、という気概が感じられた。青学をぶちのめしてやるといった闘争心すら感じた。
関東のあの誇りの高さはどこへ行ってしまったんだろう。技能に舵を切ったからではないのか。気持ちの上で跡部に挑むというものがなくなったんじゃないのか。
持てうる技能で何かを表現するとき、そこにはゴールがある。やりきった、という本人しか分からない範囲で満足が生まれる。
やれることをやれたら終わりなのか。答えがない正解がない終わりがない模索の先の、次元の先に、キャラクターが居るのではないのか。届かないから、それになろうと焦がれて、感を極めて、そこに敬意が生まれるのではないのか。
自分が演じるキャラクターに対して尊ぶ気持ちのないものが、テニミュで部長を張れるかよ。
こういう目線にしただろう。
こういう風にそっちが見せてきたじゃないか。キャラクターに思考を付随させ、2.5次元という狭間を作って、青春体感という枕詞でキャストとキャラを≒で繋いで、散々こっちの頭をおかしくさせておいて、今さら一芸特化でこっちを納得させられると思うなよ。
これはキャストの話ではなく、指導と方向性の話なのかもしれない。いったいどこまで口を出すつもりなのか。でも、もうそこが行き届いていないとしか思えない。
演技も思考も熱も一芸以外の何もかもが足りていなくても、ダンスという部分で仕上がってさえいれば許容される全氷にした。
そんなのテニミュじゃねぇ。テニミュじゃねぇ。テニミュじゃねぇよ。テニミュという共通認識をぶち壊してる。少なくとも氷帝ファンは認めるわけにはいかなくないか。氷帝ファン以外から、バレエの動きが良かったとか、跡部が踊れていたといった評価を受けるならまだしも、氷帝ファンなら、氷帝ファンだからこそ、あの全国氷帝をテニミュとして許せないのは正常ではないの。
ミュージカルとして三浦が及第点だったとしても、内情の推察ができた上で、私はあれをテニミュとして飲み込みたくない。
もっと難癖をつけていい?
バレエってフランスじゃないか。調べたところ発祥自体はイタリアのようだか、現代へ繋がる私達が知るバレエはフランスのものじゃない。宮廷で発達し大衆に広まった文化だ。パリ・オペラ座だ。同じダンサーだったとしても、私にとってはB系のほうか遥かに遥かにマシだった。踊れるというだけで、あの跡部景吾が、あのフランスの、ひいては踊り子文化をまとう事に、ああちくしょう、今更ながらに目眩がする。
3rdの跡部が好きとか嫌いとか、そういうことは言えない。そもそも飲み込めなかろうが吐き出すしかなかろうが、嫌いと言えるはずはない。
でも昨年からもうずっと、テニミュに跡部を人質にとられている心地が続いている。
諸事情で纏めるのがひと月以上遅れてしまった
これはもともと運動会の前に書いていたものです
実際お会いしたのは先日どころか2ヶ月くらい前です
喪失と会得のシークエンス
全立後半に備える時系列整理
全国大会決勝戦では、精神面と身体面の双方向から喪失と会得が繰り返し描かれた。無我・忘我・自我、病・イップスといったキーワードで表現されたそれらを順序立てて紐解く。勝利は得たものか。反面何かを失ったのか。S1を戦った彼ら二人を中心に試合決着までの道を改めて辿る。
全国大会決勝戦・・・両部長を欠いていた関東大会から、双方フルメンバーを揃えて臨む試合
青学→全国制覇に向けての最後の一戦、全国2連覇中の立海に挑む
立海→三連覇がかかった一戦、関東大会でのリベンジマッチ、部長幸村の復帰戦
そんな大舞台で試合開始時に越前リョーマが不在軽井沢から電車のトラブルで東京へ帰ってこれない・・・越前リョーマという存在の欠落
ヘリによって東京入りし、S3の決着とほぼ同時刻に会場に到着した越前リョーマ
↓しかし
軽井沢での修行中に記憶喪失に・・・S1を任せるリョーマという戦力の喪失
リョーマの状態・・・テニスに関する記憶・技能を失った状態 =忘我?
テニスを知らないリョーマを私達(含作中登場人物)は知らない為、これはリョーマではない、テニスという核を忘れた不完全なリョーマという捉え方/“人間”にテニスは必携ではないけれど、“越前リョーマ”にはテニスが必須という刷り込みがされている(※1)
その状態のリョーマが観戦する試合→乾・海堂vs柳・切原というテニスを逸したデスマッチ
悪魔化し戦う切原赤也→無我の境地とは異なるピーキーな状態(また、それを試合終了まで維持した)
○切原赤也という存在
かつてリョーマと野試合を行い、リョーマが無我の境地へ足を踏み入れるきっかけとなる
リョーマの覚醒を見て“限界を超えてぇ”と呟く
→自身のコントロールを失う事(無我の境地)で瞬間的に得た強さに焦がれている描写
野試合直後の関東大会で自身も無我の境地を経験する
↓その無我の境地発現のトリガー
視力を失った不二周助 (不二は青学への愛着を獲た事で視力を失う) ・・・切原は不二に敗北
無我の境地では勝利が得られなかった切原は悪魔化へ転換した?立海主導で?それを覚醒と呼んでいいのか?
自我は失わずに性能を高める仕様が悪魔化なのか / But引き換えに試合中の記憶を失くしている
そして)記憶喪失リョーマは悪魔化切原ではなく、血まみれの乾に対し心を動かされている
・・・忘我中のリョーマが思い返す自我の中に、悪魔化(≒赤目化ひいては自身の無我)に対しての思い入れがない?
→乾の姿(青学の為に勝ちを掴もうとする姿)は心の琴線に触れるのか
何故?)“青学の柱ってやつ”を務める意識が越前リョーマの自我にあった?※越前リョーマの自我に“青学”は必要か?
○リョーマが「乾先輩・・・」と呟いた事をきっかけに記憶を取り戻そうとする桃城
Q)どうやって? →ひたすら試合形式で記憶喪失のリョーマに打球を打ち込む マジか
当然最初は打ち返す事ができないが、体がテニスの動きを覚えている為、徐々にラリーが出来るようになる→身体上は無我の境地と同じ状態(意識の外側で体が動く)
・・・超スピードでのテニスの技能の会得(出来なかった事が出来るようになる、成長・成功体験) / かつて倒したほか選手達とも次々に対戦し、勝利体験を重ねる
※このとき真田は来るくせに切原は来ない
無我状態で勝利した切原戦は、決勝S1へ向かう自我を持った“青学の越前”には不要なものだったのか? →)結果、リョーマの記憶は無事戻る マジか
★この短期間で越前リョーマが得たもの
・忘我→自我の復活の短期間で習得したテニスの経験値
・青学を優勝させるという柱としての自覚
・風林火陰山雷の雷の経験
どんな打球も難なく返球することで、相手が戦意を喪失しイップスに陥っていく
能動的に“五感を奪う”・“五感剥奪”というより、相手が五感を失っていく“状態” ≒技ではない(※全国決勝時)
①戦意喪失→②イップス→③五感干渉→④テニスの崩壊→⑤相手の自滅
※五感・・・触覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚
S1以前に越前リョーマに起こった事
↓
無我の境地(vs切原戦)
↓
↓
記憶喪失、テニス技能の喪失
↓
テニス技能の再取得
↓
記憶の回復
↓
S1へ
S1以前に幸村精市に起こった事
↓
無我の境地の会得、幸村のテニスの確立(時期不明)
↓
免疫系の難病の発症(昨年秋) 病床に臥し、思うように体が動かせない身体の自由の喪失状態(身体の自由の喪失=テニス技能の喪失)
↓
手術、リハビリによるテニス技能の再取得
↓
S1へ
両者とも試合以前に一度テニスが出来なくなる経験をしている
しかし、その間リョーマにはテニスが出来た頃の記憶無し/反面、幸村にはテニスが出来た頃、全国制覇に導いた記憶あり
→テニス技能の回復中に彼らが抱いた思いは両極端なものだったと考えられる
出来るようになる喜び ⇔ こんな事も出来ないのかという憤り
S1中の越前リョーマ
無我の境地(百錬?)
↓
五感の喪失(身体の自由の喪失)
↓
テニス技能の喪失への苦しみ
「テニスってこんなに苦しいものだった?」
↓
喜びの再認識 「テニスって楽しいじゃん」
↓
テニス技能の再取得
↓
天衣無縫の極みへ
↓
勝利
S1中の幸村精市
無我の境地を押さえ込む (無我の境地の否定)
「ボールは分身などしない」
↓
触覚が失われていくことに言及
↓
視覚が失われていくことに言及
↓
リョーマの打球を見失う
「テニスを楽しむだと?ふざけるな!」
(天衣無縫の極みの否定)
↓
分裂した打球を返球
↓
敗北
リョーマは幸村のテニスにより試合中に再度テニスの技能を失っている
・技能が無い状態≠技能を失った状態
前者:初心者の頃など伸びしろがある形
後者:経験者に対しての表現・あるべき技能を無くしてしまった形
後者の身体の不自由さを経験したのは幸村のみ
(※手塚のイップスはテニスではなく、左肩に限定)
!)今までの対戦相手はテニスの技能を失う事を経験したことがなかった
But)リョーマはテニスが出来ない事を忘我中に経験した…そしてテニスが出来る喜び、楽しさを知った(獲た)ばかり 身体的には後者だが、精神面は前者(初心者)
「どこへ打っても返球されるイメージが脳に焼き付いて・・・」(金太郎)
→勝つためのテニスでは、相手に返球させない事(=ポイントを奪う事)が必要 / ラリーは不要
でも!)少なくとも忘我中のリョーマにとって、ラリーが続く事は苦しい事ではなかった筈
「すごいよリョーマくん、もうラリーが続くようになるなんて」(カチロー)
むしろラリーが続く喜びがあった?
・テニスって楽しい⇔ふざけるな
テニス=強くなること、成長することとしてきたリョーマ Ex)「強くなりたい…もっと、もっと!」
テニス=勝つこと、勝ち続けることになっている幸村 Ex)「皆、動きが悪すぎるよ」
※天衣無縫(の極み)なんてもんは最初からねーよ、という越前南次郎の発言
・・・誰の中にもある?テニスを始めたころのわくわくする気持ち?
テニスの技能を維持したまま、その気持ちに立ち返ることが発動条件?→一方、紙面の表現上では可視化されている・・・(青緑系のオーラ表現)
・天衣無縫の極みは「技」としての形はなく、あくまで「状態」として存在するのではないか
Ex)跡部「氷の世界」、大石「大石の領域」など球に直接影響しない自身強化状態・・・幸村のテニスも状態に当てはまる
無我の奥の三つの扉(千歳千里談) 「百錬自得の極み」 「才気煥発の極み」 「天衣無縫の極み」
そもそも天衣に限らず無我の三種の極みの全ては、技ではなく状態なのでは?
・百錬と才気が必殺技のように扱われているから読み間違えがち
状態発動の利点…打球を介さずに相手に影響できる、極論テニスじゃなくても自身に有利な状況の構築が可能
無我の境地・・・頭で反応するよりも先に体が反応し様々なプレイスタイルに変化する“状態”
才気煥発の極み・・・試合をシミュレートする事で展開が分かる“状態”
百錬自得の極み・・・無我のオーラを左手一本に集約し打球の威力を倍返しする“技”?
↑これって手塚だからこうなってるだけだよね?百錬の肝は倍返しではなく、オーラを局所化する事とその部位の強化ではないのか (オーラを左手一本に集約する事は左利きの手塚だから作用する、倍返しも細腕である手塚だから作用している)
【本来の】百錬自得の極み・・・無我の境地を局地的に使い、使用部位の強化をしている“状態”
そうなると)全氷S1でのリョーマの無我のコントロールは百錬の一端であったといえる
天衣無縫の極み・・・テニスを楽しむ気持ちに立ち返り、思うが侭にプレイする“状態”
全立後半に向けての中間まとめ(仮)
無我の境地で自己の思考の喪失を経験し、記憶喪失という忘我を経て、自我に目覚める。全国大会決勝の舞台でリョーマに起こった事とは精神面での生まれなおしである。身体に降りかかった喪失・会得がきっかけとなって精神面の変容を引き起こしている。記憶喪失時の頭より身体が先行する事は無我によって既に耐性があり、ライバル達と試合を行い早回しで行う事で経験値の獲得と【青学の越前】としての自我を発現させた。そして真田の雷を食らう事で、テニスプレイヤーとしての【リョーマ】の自我を掘り起こす布石を打っている。【青学の越前】として未経験の技を体験することで、【リョーマ】として未知の技を打ち破る強さを求めるという心境を発生させる方向へ舵を切っているのだ。記憶喪失があった(=記憶喪失から目覚めた)故に、イップスを破る足掛かりをそこで獲得し、【リョーマ】としての自我に自覚的になった。そしてその自我を軸とした天衣無縫という極致の状態に達した。
対して幸村は、身体の自由を失う事で同様にテニスを失い、リハビリによって技能を再習得した。しかし、その過程で得たのは上達していくプラスの経験ではなく、出来た事が出来なくなっている事を思い知らされるマイナスの刷り込みだったと考えられる。幸村が得たものは、楽しさではなく辛さであり、それを乗り越えてコートに戻るといったテニスへの執着である。その執着の元には【2連覇中の立海大附属】という帰属意識が伺える。8月23日術後、麻酔から覚醒した時に、聞かされたのが立海の敗北だった時、自らが学校を背負って勝たなくてはという思いに幸村が至る事は想像に難くない。この時点での幸村の原動力は、テニスと勝利への渇望であり、テニスを続ける理由(立海部長として復帰する理由)は、勝つ為以外に無いのである。
テニスの王子様の世界において、天衣無縫の極みが一つの到達点であると考えると、自由に自分の為にテニスをするという事が一つの理想として表現されているとわかる。それは大抵楽しい記憶であり、天衣無縫のリョーマが幸村に勝利する事は、楽しい経験が辛い経験より優越することを表している。幸村の内部にある帰属意識を自己へのしがらみとして捉え、リョーマの得た自由さと対比させているとすると、学校単位で応援しない方が良いのか?と少し悲しい気持ちになった。
病によってテニスを奪われた幸村が、イップスによって対戦相手のテニスを奪うという構図については、既に散々言及されてきたと思うが、今回改めて整理した。かなり記憶喪失に拠って考えてしまったので、もう少しイップスについてと切原の悪魔化について突き詰めて考えたい。あと学校に対する意識についてもよくよく考えたい。実は【青学の柱】って青学R陣の中で全く公用語句じゃない説を推しています。
※)題名がめちゃくちゃ上手く機能している。『テニスの王子様』を読んでいる限り、主人公からテニスの要素が欠落したら、それはやはり“テニスの王子様の主人公=越前リョーマ”ではなくなってしまうのである。
余談)手塚国光はやっぱり強い 手塚ゾーンというラリー特化技持ちな手塚。相手から打球が返ってくることを全く怖がっておらず、幸村のテニスとの謎の相性の良さが伺える。肩イップスを克服し、手塚戦法(ラリー重視で相手の隙をついての零式等の不可触技でポイントを重ねる)に忠実に試合をした手塚と、ひたすらに打球を返しまくる幸村の、見た目は地味だろうけど白熱するだろう試合は見てみたいカードであった。幸村が零式を攻略できるか、もしくは打たせない状況に持っていけるか、手塚側はイップスに追い込まれないまま試合が続けられるかが鍵となるのでは。零式は予備動作・コート領域・タメ・相手の回転等の満たすべき発動条件がほぼ無いので、手塚が零式を打てない状況がどれだけあるのかは不明だけど。
氷帝における消費と幸福の関係性について
氷帝生の今ほしいもの | お小遣い使用例 | |
テニスコート | 部員におごってあげる | |
忍足 | ヒミツ→今はもう無い | 舞台や音楽鑑賞 |
宍戸 | レアなジーンズ | 本やCD代 |
向日 | 背中に羽がほしい→身長・・・ | 友達と遊ぶこと |
芥川 | 部屋に大きいソファーがほしい | 新作のポッキー |
鳳 | 世界平和→大切な人を守る強さ | 楽譜 |
特に・・・ありません・・・→お花を貰ったので花瓶を・・・ | 特になし | |
日吉 | S1の座→氷帝の全国優勝 | 古書を買うこと |
滝 | アンティークのペット皿 | 不明 |
全国氷帝意見
全国氷帝の感想メモ
送付文なので誰宛やねんとなりますが、このまま残しときたいので、記録記録。
忍足への歪んだ慕情
忍足侑士の事がとても好きらしい。3rd全国氷帝公演を観て忍足への想いの重さに気付いた。今忍足侑士と打とうとして、侑の文字が変換の一番最後に出た。腹が立つ。だがそういう面倒くささもひっくるめて好ましく思う。それなのになぜ、あらゆる忍足に文句ばかり言ってしまうのか。忍足が大好きと、きらめくような気持ちを持っているとは言えない。そのくせ忍足に対する思いは表立つ事なく常に心の薄皮の下を脈々と巡っている。私と忍足侑士の間に何があったのか見極めて、忍足への想いの根源を探る。
first impression-氷帝の男-
忍足侑士を初めて認識したとき私は彼より年下だった。地元の漫喫でテニスの王子様を1巻から読んでいって、14巻に出てきた。ストリートテニス場のときは、ああ前フリかなとしか思わずスルーしていた。確かこの頃はリョーマがかっこよくて仕方ない時期で、それと不二先輩がかっこよくてかっこよくて山吹戦不二の試合が省略されたことに怒っていた。
そんな中、忍足侑士と向日岳人は14巻の後半に唇だけで出てきた。勝つのは氷帝、負けるの青学。そしてその台詞に合わせて部員たちが氷帝コールをしていた。何だこれと思った。次の見開きページは圧倒的だった。台詞なし、効果音なし、右に忍足、左に向日で、1ページ前までの喧騒をブチ抜く見開き。テニスの王子様に流れる氷帝らしさを確立したのはこの4ページだと思う。彼らは喝采を浴びることに慣れていた。歓声と羨望を受けることを当然としていた。関東大会に浮き足立ち、応援団に影響を受ける青学とまるで違う余裕を見せつけてきた。この瞬間に私が何かを奪われた事は確かだと思う。人気を取る為のキャラクターだと思った。黒く塗られた髪が、印刷の都合でムラになっていたこともよく覚えている。何この人、ともう一度思った。左にいる向日と、対比するように肩幅や身長がしっかりしていたことも、忍足は体型が仕上がっている完成度の高い選手だと示しているようだった。個人的にこの時の岳人の顔はちょっと変。私は当時の新刊であった23巻を一番初めに読んでいたので、実は14巻で忍足と出会う前に、全国大会が始まる時のコマの中で忍足の事は見かけているのだけど、23巻を読んだときは忍足を始めとして佐伯も千石も壇くんも誰1人知らなかったので何が何やらだった。ダビデと佐伯とバネさんのくだりと、千石が解説するシーンが抜群に混乱した。
忍足が関東氷帝戦で見せた冷静さと巧みさは、14巻までのテニスの王子様の敵キャラクターには居ない枠だった。冷静さといえば手塚、テクニックの頂点はこの頃は不二だった。試合毎に一撃必殺技を主として戦いがちなテニスの王子様の中で、羆落としを軽々やってのけ、跡部からゲームを知っているという評価を受け、岳人のサポート役から攻めに転じる姿が、強さの裏付けに見えた。理性でテニスをしているように思った。試合が終わった後もタオルを首にかけて跡部に話しかけている姿がかっこよかった。試合が終わる頃には、というか多分羆落としを決めたコマ位から好きになってた。強さとかっこよさを感じた。そして今までリョーマや不二から感じていたものとは違い、テニスプレイヤーとしてだけが、切り取られたテニスの王子様の作中だけでなく、プレイスタイルから想像させる忍足侑士像が琴線に触れたんだと思う。コマ外を雄弁に想像させる忍足が、氷帝に私を引きずり込んだ最初の一手だったのかもしれない。その後すぐさま跡部にはまるけど、その時も同じハマり方をした。全身の毛穴をブチ開けろよ!からのダイビングボレー。決着した後の握手の腕、後ろ姿、左に流れた首と髪、踵が少し浮いた右脚がびっくりするほど美しかった。コマの外を感じさせる動作を、忍足と同様に感じた。試合中に見せるプライドと自信の表れである余裕さ。それを氷帝学園から感じた。当時は特に忍足から感じたのだ (注1) 。
忍足侑士を認識せよ-演出される特異性-
当時私はJCとアニメしか知らなかった。このころアニメは全国立海D1で柳生がゴルフをしていた。なんか夕暮れみたいな中で仁王がニヤニヤしながら柳生をテニスに誘っていたような気がする。私がしっかりアニメを見始めたのはS3だったけど、その試合はまだコミックスとしては発売していなくて、本誌はS3後半かS2試合中だったんだと思う。私がテニスの王子様に嵌まっていった時期は、確かに関東立海でアニメが原作を追い抜いた時期だった。不二対切原戦は文字通りテープが擦り切れるほど見た。このときはまだレンタルも一般家庭もVHSが主流だったと思う。このときのS2では、とにかく不二先輩の瞳が青いことが綺麗で綺麗で羆落としのエフェクトがかっこよくてかっこよくて何回も観た。アニメではS2は2週で決着がついたけど、その時本誌では試合真っ只中だった。本誌を読んでいた父親に不二が勝ったとアニメネタバレしてしまい、この一件から父が本誌を毎週買ってきてくれるようになった。父が本誌を買い、私がコミックスを買うというwin-winの関係がスタートしたのもこの頃だった。ジャンプ本誌を手に入れて、テニスの王子様にのめり込む速度が格段に上がった。24巻まで刊行されていたJCはほぼ全部買ったところで、S2が収録される25巻が発売されるまで期間が長かったような気がする。4ヶ月ペースのときだったんじゃないかな。確か26,27が年末年始に連続刊行だったと思うんだけど、今記憶で書いてるから詳細には分からない。とりあえず必死で24巻と今の本誌の間を埋めようと、地域の古紙回収に参加してジャンプを回収しテニスの部分だけ切り抜いた。巻末コメントもグッズ紹介のカットも切り抜いてノートに保管した。基本リョーマのカットだから、不二先輩が出てくると超テンションがあがった。
忍足に話を戻す。そんなことをしてる間にアニメは関東大会を終え、何週かの一話完結を挟んだ後、アメリカ選抜編になっていたと思う。ここで城西湘南に誰だこいつらと思ったことも覚えている。梶本を好きになりかける。選抜中も露出が少なかったおかげで踏みとどまれた。このアメリカ選抜編でも忍足は確かにかっこいい役として表されていた。実力者だったのだ。天根とのダブルスを経てめでたく選抜メンバーに内定していた。
ちなみにこのアメリカ選抜編での鳳は本当に同担拒否が過ぎるからぜひ観て欲しい。加えて菊丸も見てほしい。菊丸も選抜メンバーに選ばれて忍足ペアを組むことになるけど、選ばれるきっかけの試合が菊丸・鳳VS大石・宍戸のダブルスである。ここで菊丸は鳳と上手いことやって試合にも確か勝っていたと思うけど、それを経てのコーチ陣からの菊丸の評価が“誰とでも組める”的な評価のされ方だったと思う。そんなはずある?!当時は全く気にしてなかったところだけど、そんなことある?! 3rd比嘉戦のブチ切れ菊丸を見た身としては、菊丸は黄金であることに拘っていて、むしろ誰とでも組めるなんて大石のポテンシャルじゃん。大石の万能さは新テニからも見えることだと思う。10年も前のアニメシリーズに言及する予定じゃなかった。忍足の話から逸れ過ぎだけど、菊丸の葛藤がアニメからすこんと抜けていて、しかもそれを本誌でもアニメでも見ていたはずなのに、同様に抜け落ちている自分の頭にぞっとする。何か大きな力でもって菊丸は天真爛漫で底抜けに明るくて空気の読めない良い子なの!と情報操作されているとも思う。どんなメディアでもそうだったもの。そんな良い子ちゃん菊丸のエンドレスリープから飛び出てきて、グレッチで殴ってきたのが3rd9代目菊丸だった。私は15年も菊丸の何を見ていたんだ。アニメと比較することで比嘉公演から時間差でまた菊丸から殴られた。ああ菊丸の話がしたい。忍足じゃなくて菊丸の話がしたい。3rd比嘉公演は本当に偉業だった。このアメリカ選抜の菊丸と全国開幕後の3rd比嘉戦の菊丸は本当に同一人物なのかと思うほど、解釈が振り切れている。菊丸の心境をプロに聞きたい。
もう一度忍足に話を戻す。忍足は器用だったので選抜入りしたような気がする。あとは華村コーチのお気に入りだった。榊太郎は跡部と真田を独断で入れて、それに対抗するように華村葵が忍足を入れたような気がするけど、正直曖昧。年上の女性から高評価を受ける忍足像はこのころには基盤が出来ていたのかもしれない。その後のOVAシリーズでも意味不明なバイオリンを弾くシーンが挿入され、女性の先生から指導を受けていた。忍足が大人びていることを表現する為にそうされたんじゃないかと思う。中学生らしくなさ、大人っぽさのアピール。20.5巻のプロフィールでも好きな食べ物や、好きな映画、好きな色など中学生らしさからあえて外した嗜好が書かれている。というか20.5巻を開いて最初の跡部でローストビーフヨークシャープティング添え、次の忍足でサゴシキズシって心が折れる。お前らとは馴れ合うつもりはないからな、という氷帝ブランドが押し付けられた気がした。そう思ったのに出身小学校をみたら、かたやキングスプライマリー、かたや道頓堀第三て。氷帝じゃないんかい。でもでもこういう所だったと思う。忍足と跡部だけが幼稚舎出身じゃなかった。氷帝の中でも特別感を感じたし、そういう狙いがあった。同20.5巻の中で榊に対して毒ついていたのも、跡部に対してナルシストと言わせたのも、忍足は氷帝テニス部を外的視点から見れる人物だと、こちらに思わせる狙いがあったと思う。原作氷帝狂詩曲でも忍足は基準服(注2)で紙面に現れて、全国出場を跡部が受け入れるか憂慮して、そして他の部員より早く跡部を見つけて、タンホイザーを目撃する。忍足の特別感、氷帝内における別格感は、特に原作から、小出しに、丁寧に、サブリミナル的に、印象付けられていったと思う。
私の中の忍足は、氷帝のカラーを決めた人(14巻)で、他の氷帝生より少し特別(20.5、23、28巻)で、冷静(アメリカ選抜)で、“テニスプレイヤーとして”以外にも、存分に価値のある人間だと思っていた。というより思わざるを得なくされてたと思う。だから、忍足は売れた。初期の立役者だと思う。主役部長副部長で固めた時に、何食わぬ顔してログインしてくるのが不二と忍足だった筈だ。天才二人は特に地上波時代に頑張った。
技巧派としてのキャラ付け-ゴシック中二病全盛期-
この時点でがっつり腐女子だった私は、単品のイラストサイトさんから芋づる式にランキングサイトへどんどん進んでいった。そもそも漫喫で読んでいた事が要因で、彼らについてなにか知りたくて、私はブースの中のPCで忍足侑士、跡部景吾などをガンガン検索した。ネットの海へ大航海時代。群馬の高架下の漫喫で私は忍足と跡部の絡みを知った。原作絵しか見たことがなかったので違和感が合って、最初はこれは跡部なのだろうかと思うこともあった。なにせMixiもpixivももちろん無い。個人サイトとランキングを頼りに彷徨った。公共の場からアクセスしてしまっていて、本当に申し訳なかったですが、最低限としてPCにブックマークしていないことだけは言い切れる。何故ならそのころブクマ機能を知らなかった。HPのアドレスをノートに書き写し、それを打ち込むというぞっとする方法でサイトを巡っていた。平行して古本でアンソロを買い漁る時期に入っていたと思う。この時期のヒットメーカーとか、ラブプリとか、もうビックリするほど不二は魔王だし、忍足は背景に黒い羽根散らしてる。テクニック派の二人はもう裏のあるキャラクターとして認知されていた。人を食ったようなとか、感情の読めないとか、そういう形容のされ方をしていてた。トーンを多用して瞳にホワイトは入れない。厨二というよりも、もっと純度の高い中二病の体現者だった。そういう時代だった。とにかく忍足は、曲者で、一筋縄ではいかなくて、跡部に一目置かれる、氷帝の異分子として表現されていた。この頃の二次創作では忍足は転校生扱いが多かったのも、忍足が氷帝の中でどれだけ異端めいていたか分かると思う。20.5が発売されるまで忍足は中2ごろに転校してきがちだった。
かつての忍足侑士はこうだったのだ。かつてというか、私が好きになった時期の忍足像がこうだった、のほうが正しいかもしれない。忍足はテニス全体としても人気があったし、氷帝においては人気を跡部と二分していた。私がすきな忍足、恋しく思う忍足はピンポイントでここだ。跡部より優位に立って、跡部の知らないことを頭上から散らすようにして、跡部に影響を与える。大人びていた忍足と比較してこの頃の跡部は割りと幼い。世間知らず感が強いか、負けん気が強い。余裕のある忍足とPussy Catな跡部な位に精神性に開きがあった。そんなCP観の忍跡が大好きだった。この頃の忍跡CPが土台にあって関係性の似ているCPに嵌まってきたかもなと思う(別添参照)。
私が夢見る忍足はこの忍足なのだと思う。だってかっこよかったんだもん。跡部と対等、跡部に認められている、跡部が気を許すとか、そんな忍足が。人の魅力は他者と関わることで引き出されると思うけど、跡部と関わっているときの忍足は凄く魅力的だったしかっこよかった。忍足の強さとか思慮深さとか、テニスに内包される忍足の性格を際立たせてくれたような気がする。人と人との関わり方は変化するものだけど、忍足と跡部のあの時点での関わり方は、こんな感じだったと思う。実際には忍足は中一の時点で氷帝に来ていた事が20.5巻で分かるのだけど、2000年初期の異邦人忍足侑士観は、氷帝テニス部現3年生が入学した頃に実際に起こっていたことだと思う。まあ跡部も異邦人なんだけど。入学時点での氷帝学園からしたら。氷帝からした特別な二人が関わりあう忍跡、そりゃあ流行る。
強みの喪失と強さの体得
そこを拾って特別感をうまく演出して板の上に形作ったのがテニミュ初代のtkmlxだったのかもしれない。私がtkmの忍足が好きなのは多分そういう理由がある。
今回、テニスの王子様を取り巻く時系列を確認していて気付いたけど、tkmが忍足を演じはじめたころは、JCでは28巻が発売されたころだった。地上波が終わって半年たった時期でもあり、当時の忍足侑士像は出来上がりきっていたと思う。地上波でも忍足はスカしていたし、直前に発売された28巻“氷帝狂詩曲”では、あの気だるげな基準服と革靴で走りもせずに跡部を探す姿は、当時の【00年代忍足侑士】以外の何者でもない。tkmが忍足像を理解して演じ切ってくれたおかげで、tkmの忍足は踊れなくても許されていた。だって当時の忍足侑士は俊敏に踊る必要が無かった。それはtkmだったからという理由だけでなくて、tkmが表現しようとした、当時の忍足侑士自体がそういう生態だったからだと思う。この点に関してはナイスキャスティングとしか言いようがない。けど。実はここが忍足の今後の分岐点だった気がしている。1stの関東氷帝冬公演が2005年12月~で、2006年2月にJC32巻発売なので、tkmの忍足を経て全氷の忍足が生まれた可能性は十分ある。関東夏公演の出来栄えと、追加公演となった関東冬での忍足の完成度と人気ぶりを見て、ダブルスではなくシングルスにコンバートされたんじゃないかと思う (注3)。tkmのおかげで人気に拍車がかかった忍足が出番も増えて、勝ち試合を描いてもらえた。ただ、私は対桃城戦で勝利と引き換えに忍足はこれまでのアイデンティティを失ったと感じている。
桃城を倒さないと上へ行けないという忍足。ずっと胸の内に燻りがあったという忍足。お前だけは俺がと熱を込める忍足。今までの忍足と全然違う。知らない忍足だった。余裕はない、勝敗よりも勝利を優先する忍足は、氷帝の枠から外れた個人のテニスプレイヤーに見えた。氷帝の中の異邦人だった忍足は、氷帝の勝敗という枠から外れることで異邦人ではなくなったのだ(注4)。
もう忍足は跡部と拮抗していた過去を想像させることが出来なくなってしまった。この試合の後に40.5で風雲の序盤、またこの2006年から3年後にOVAで風雲少年跡部が発売となるので、実際には1年当時の忍足は跡部に目を見張らせるものがあった事が分かるのだけど、2006年当時に本誌で忍足が桃城に辛勝した時に、氷帝ファンの私からしたら、桃城が強くなったというよりも忍足の強さのよすがが無くなったのだ。散りばめられた仕掛けと、忍足を丁寧に扱ったメディアによって、不確かながら共通認識として確かにあった余裕、強さ、ポテンシャルそれらが失われた。全氷でのS3は忍足が殻を一つ破ったって事なのかもしれないけど、私が好きで好きで氷帝に落ちるきっかけでもあったあの忍足侑士像が立ち消えた試合だった。桃城のせいで私は忍足侑士に失恋した。
忍足は勝利でもって確実な実力を得て、不確実だった強者感を失ってしまった。そしてそれは跡部と並んで立つことへの脱落のように思う。氷帝内での別格感が失われてしまった。この感覚については私が元々跡部至上主義であることが強く出てしまっているのだけど、跡部と並び立つ為には、テニスプレイヤーとして若しくは人間として、底知れなさや計り知れなさが必要だった。そういう人が跡部に影響して欲しかった。全氷S3戦では敗北を喫しはしたけど、底知れなさを見せ付けてきたのは桃城だと思う。こうして言葉にしてしまうとより、桃跡に転がりそう。
忍足の変容-凋落か転生か-
2008年に1st全氷が開幕となるけど、この時期本誌でのテニスの人気は正直右肩下がりだったと思う。駆け足で全国決勝を描ききって瞬く間に連載が終了してしまった。6月に42巻の発売、7月から全氷のスケジュールだった。このとき全氷で参考にされるのは恐らく原作の全氷、OVAの全氷(2006年年末から2007年1-3月にかけて発売)、あと関氷のtkmなんだろうなと思う。aksnの忍足は圧倒的に顔が綺麗だったのだけれど、tkmと比べると忍足感が薄い。それはaksnがどうこうって言うよりも、aksnが表現すべき忍足が私の求める忍足とズレが生じていたから仕方ないんだと思う。かつ、aksn自体が持っているスマート加減が理想の忍足に近いから、よりなんか違う感が抜けない。tkmが全氷の時点でも理想の忍足に近いのは、彼は関氷の時代の忍足を知っている、かつそれを体現した人だったからだ。関氷時代の忍足しかなかったtkmと、それ以降の忍足を得たaksnではスタートラインの情報量に差がありすぎる。aksnが演じる為にという視点で観察しただろう忍足は、すでに氷帝の中で異分子ではなくなっていたのだから。
aksnに対しても2ndkkcに対しても忍足はこんなんじゃない、もっとできるって私はずっと思っていたけど、それは私が好きな時期の忍足を押し付けてただけだったのかも知れない。私の忍足侑士像があの頃のままだったからなのかもしれない。また、忍足の静→動的変遷については、飛躍しすぎかもしれないけど、BLを取り巻くカラーの変化と同時期に起こっていると思う。00年代から10年代にかけての二次創作物に関して、暗→明に代表される変化が起きた話をぶっ込んでおく。忍足はそれとリンクしている、かつ、この変化のせいで憂き目にあっているタイプの人間だと思う。BLはファンタジーから、BLは存在しているかもに変わった。夢物語から現実世界へ変化した。無意味に国内を逃避行させる小説が減ったと思う。その代わりに海外へ行かせて悠々と暮らさせた。退廃的な理想郷から前向きで上質な生活に変わったと思う。彼らに私たちがイメージする幸せを味わわせるようになったと感じる。
その変化にはオタク文化の地位の向上が関係しているかも知れない。でもオタク文化の向上自体はどちらかというと00年代後半から現在(18年)に至るまでに起こっているような。明らかに市民権を得てきていると感じたのは13年ごろかなあ。00年代からの腐女子文化の前述の変遷によって、明るいBLで思春期を過ごした女性たちは、それを外向きに発信しやすかったんじゃないかなあ。私が思春期を過ごしたBLは対外に向けるつくりになってなかった。分かりやすく塚不二で例えると、昔は不二が手塚の腕の怪我に絶望して、テニスなんて関係ない海へ行こうよとか誘って、真夜中の海へ行ったまま青学R陣から姿を消しがちだけど、今の不二は菊丸と国際電話しながら花屋で買ったスイートピーを生けて、ソーセージを茹でつつテニスコーチをしている手塚の帰りを待ってる(ドイツ在住)。くらいの違いがある。気がする。バトテニをバトテニのまま中二全開で完結させるか、バトテニ収録ものとして視点を上に置き、ドラマとして完結させるかとか、流行としてBLも変容している。
かつての忍足の持つ得体の知れなさは、今昔の昔ではとても輝いていたけど、昨今では持て余される。厨二病が揶揄されるような風潮も忍足をこういう第一線から遠ざけたと思う。生活感でもってテニスのBLを席巻したのが四天だった。四天宝寺は絶妙な現実感で私達の身近に降り立った。キャラクターを現実の私達の生活に寄せるか、それともファンタジーとして突き抜けさせるか。その分岐が00年代に起こっていたんじゃないかなぁ。昔の忍足はいろんな都合をつけられて中3なのに一人暮らししてた。今は忍足が一人暮らししてるっていう体で、話を進める人は少ないものね。昔の忍足は、腐女子の夢を背負って、ファンタジーを前提として、叔父の持ちマンションだからとか理由をつけて、一人暮らししてたんだけど。そしてそこに跡部を呼んだり監禁したりするんだけどね。そういう忍跡はもう無くなってきたもんね。立海を境界として氷帝と四天で夢物語と現実世界の分担時代。立海は幸村周りに寄せるとファンタジーになるし、プリガムレッドに寄せると現実感が増す。等身大の中学生感を殺すか生かすか。四天における彼の存在も忍足侑士を人たらしめた。忍足謙也は忍足侑士を地上へ落とした。
台頭する日吉
私の求める忍足が初めて会った頃の忍足ということは、全国氷帝が発表されたこの世界では、もう理想を体現する忍足には出会えないんじゃないだろうか。かつては氷帝には忍足あり、と名を轟かせ、DVDの表紙になり、跡部と対でグッズ化され、売れる男だった彼にはどんどん会えなくなっていく。2010年以降、跡部の横に日吉が控えるようになる。死ぬほどびっくりした。忍足を差し置いて?嘘だろ?と思った。新テニ同士討ちが増加時期と重なっているようにも感じる。日吉は関氷でも全氷でも黒星をつけられたけど、氷帝次期部長としての自覚と野心と向上心があった。それはメンタルの強さの裏付けになるし、現状の日吉の強さの曖昧さに繋がっていると思う。かつての忍足が持っていた不確かさという可能性を日吉はメンタルで勝ち取った。風雲少年のOVAは忍足の強さを描くには遅かったけど、日吉を掘り下げることには成功した。跡部のプレイを見てテニスを始めることを決意した描写は、2年間で日吉がこれだけ実力をつけたことの証明になる。昨年の新人戦で赤也と良い勝負ってやばくね。この時点では日吉って長く見積もってもテニス歴1年6ヶ月くらいじゃん。小6の4月に跡部vs忍足の試合を目撃して、その日からテニス始めたとしても1年半。中等部に入学してからだったら半年だ。すごい成長スピードだと思う。跡部が目をかける理由も分かる。それで赤也と良い勝負って。もしかして新人戦で負けたからレギュラー落とされて準レギュラーだった?それまではレギュラー入りしてたとかある?それは考えすぎかな。そういう今後に期待できる基礎が日吉にはある。独自性も強い。越前リョーマから4ゲーム奪った2年生は他にいない。新テニでの205号室フィーバーも日吉の人気を着々と上げた。2ndのisdiもタイミングが良かった。205号室フィーバーによって日吉をボケさせることへの抵抗がなくなっていたし、同学年と馬鹿をやるっていう現実世界の中にあるけど、私達がもう体験し得ないファンタジーをやってくれた。それでいて戻るところは氷帝S1と全国制覇なところが、分かりやすい魅力になっていた。分かりやすさが大事になった。厨二が揶揄されポエムが減った。BLにおいても分かりにくい行間が減った。それが得意分野だった忍足は置いていかれた。
日吉の台頭で憂き目を見た忍足。また、顔面力の高すぎるtnが2nd跡部として降臨している中、kkcの忍足は氷帝トップ2に並び立てる男じゃなかった。それは忍足をとりまく環境が変わったし、氷帝のバランスが跡部一強体制に移行したからだと思う。kkcのせいだけではない。私の忍足とは明らかに顔の系統も違ったので、その地点で忍足として認めてはいなかったけど、この頃の氷帝をとりまく環境は、跡部をピラミッドの頂点に置き、他を同一とするような、形だと思う。原作の氷帝の環境には近いのかもしれない。副部長を置かずにトップのみを定める氷帝の姿としては正解なのかもしれなかった。ただ、それだと跡部にかかる期待が大きすぎて、私は跡部を支えられる人が欲しかった。それを忍足にお願いしたかった。忍足には非現実的であれ、ファンタジーであれ、と思うくせに、跡部にはそういう辛さがあるかもしれない、弱音を吐く時があるかもしれない、という人間味を求めてしまう。私の気持ちは、忍足に対しては恋で跡部に対しては愛かもしれない。もう私が忍足を見る目は、曇りすぎててフィルターがかってて、多分その時の忍足なんて見えていない。忍足に対して盲目だったと今知った。
跡部一強体制は一般メディアに跡部が取り扱われることでより強固なものになっていた。テニスの王子様の顔役をしている時の跡部は、他の氷帝面子ではより太刀打ちできない存在になっていた。跡部に並び立てる人がどんどんいなくなっていた時代だ。メディアミックスが多様化しているテニスの王子様にとって、原作だけ、グッズ展開だけなど単発では、コンテンツの主流が生み出しにくくなっている。そんな中でこのころは、本誌での跡部の露出、tnの存在、歴代跡部キャストの縦ラインの強化等、跡部に関連するものたちの動きが常に活発だった。池袋ダースの頃、NHKの頃。跡部が強大になればなるほど、忍足は陰る。跡部に手が届かなくなっていく。シンボルは別格でなくてはならない。そんな眩しい跡部を微笑でもってメリーバッドエンドに引きずる忍足はこの時代にはいなかった。跡部一強体制は長かった。最近まで続いていた。跡部ファンとして別に辛かった訳じゃない。跡部の露出は多かったし、何か不自由があった訳じゃない。跡部のファンでいる以上、公式準公式問わず常に私たちは供給される。ただ氷帝の200人の部員を束ねる跡部景吾が好きだから、セットで露出のある白石や幸村が羨ましかった。チームメイトとの関係性を連想させる相手が跡部にもほしかった。3rdが始まって関氷を見た時、跡部一強体制はまだまだ盤石だなと思った。圧倒的に踊る跡部は、今までと違う魅せ方で跡部のかっこよさを一段上に上げた。圧倒されすぎて忍足を忘れるほどに。外見が忍足侑士すぎるikmにすら構っていられないほどに。
食わず嫌い、選り好み
3rdikmはaksn系譜のすらっとした忍足だった。技術や演技で引っ張るというより圧倒的な外見力で忍足侑士然としていた。六角公演にかけて、忍足侑士に近づいていったと思う、というアンケートを当時書いた。関氷初見時は全然跡部に追いついてなくて、ikmに対してボロクソ書いた。そして今回の全氷で初日に見た時、またボロクソ書いた。どうしてikmをボロクソ言ってしまうのか。3rd全氷はまず他演出部分に難がありすぎるのだけど、それを差し置いてもikmは仕上がってなかった(注5)。ikm自体がスロースターターなのかもしれないけど、板の上でプロとしてお金とって行うなら、そこは初日に照準を合わせてきて欲しかった。これは関氷でも思った。外見が忍足すぎるので最高の状態を常として求めてしまう。ジロー、向日は割と自身のイメージと差があっても、解釈として受け入れる事が出来るけど、忍足については凄く厳しく取り締まってしまう。特に現行忍足に対しては、理想の忍足の肉体を持ちながら中途半端なことしないでよ!という謎のキレ方になっちゃう。なんで忍足なのに初日にベストを持ってこれないの?なんで忍足なのに向日よりクレバーさがないの?なんで忍足なのにベンチ全体に気を回せないの?とか思っちゃう。今回忍足について考えるきっかけとなったのはここだ。ikmというかテニミュの忍足についてかもしれない。kkcにも相当書いたと思う。多分aksnを見たとしても書いていただろう。どうして、何故こんなに忍足に対して言うことばかりなの?という疑問から私の追い求める忍足を探ったのだ。どうして忍足にだけこんなに頑なになってしまうのだろうと思っていた。新解釈として受け入れればいい。向日岳人がただ飛ぶだけの煩い男じゃなくなったように、芥川慈朗がただ寝るだけの天然男じゃなくなったように、忍足の変化を受け入れればいい。ださい忍足、中学生っぽい忍足、そういう忍足を私は頭ごなしに違うと思ってしまう。
再興へのプレリュード
3rd全氷で忍足への思いを強く感じて、その理由はなんなんだろうと根底から探った。私は忍足に対して常に、対外的な忍足人気がピークだった頃、私が一番好きだった頃を求めてしまっているのかもしれないと思った。そしてその求める忍足がかつての忍足像だということが、今現在の忍足であるikmに対して、当たりが割り増しで強くなっている理由でもある。
キャストの人気がキャラクターの人気に影響することは確実にあると思っているけど(Ex:2nd滝、3rd内村、千石)、3rd氷帝が始まってikmが忍足になり、忍足の人気が高まっていると思う。というか正確には高めようとしている、動きがある、ように思う。かつての人気があった頃の忍足、すなわち私が欲しがる忍足に寄せている動きだ。全氷の歌パート分けとか、忍足を優遇するという観点からしたら氷のエンペラーに似ていると感じる。また、許斐先生が忍足を再興しようとしているとも感じる。忍足は稼ぎ頭だったから(注6)。選抜入りやアラメノマとの忍足のやり取りを、人気だけで出番がある、強くもないのに、と言われがちだが、人気だからではなく、人気を取り戻す為の起用だと感じる。強く見えないのは、知っている。3rdikmのタイミングでテニスに氷帝あり、氷帝に忍足あり、と言われた時代を取り戻そうとしているように思う。先生がこの頃忍足のことを、氷帝の月と急に呼び始めた所とかすごく思う。3rd全氷は公演としては跡部とリョーマのツートップだけど、氷帝としては跡部と忍足のツートップだと思わせようとしていると感じている。忍足は今テニスの王子様に推されている。
忍足侑士に懸けたい、時代の全て
テニミュのアンケートを鬼のように書くのはあの時代の忍足に会いたいからだ。跡部の全てを愛せるけど、忍足は全てを好きにはなれない(注7)。理想の忍足を忍足本人に押し付けてる。重い。排他的に好きだ。懐古主義だ。当時感じた高揚と興奮と自分をとりまく全てが、かつての忍足に集約して、それを焦がれてるのかもしれない。最強チームの忍足が好きだ。集え!ジュニア選抜の頃のコナミの忍足が好きだ。忍足を媒介としてあの頃のテニスの王子様を味わいたいのかもしれない。テニスの王子様が忍足再興を図っていて、あの時代を改めて作り出そうとしてるとすると、私が今更口うるさくあの頃の忍足を求めてしまうのも仕方なくない?時代背景も違いすぎるけど、当時の忍足の再興を今のこの時代に出来るの??おてふぇすのVR忍足侑士は私にとっては完璧すぎる忍足だったけど、彼を取り巻く世間とメディアはあの忍足を平成30年の忍足侑士と認められるの?
私が望む完璧な忍足は当時のかっこよさを持っている忍足だ。今の忍足のイメージとは違う。かつての忍足のままで、世間のイメージを払拭せずにかっこよく居られる所まで、彼の立ち位置を向上できる?忍足本人としてもキャラブレと言われないレベルまで、今までの変化をしっかり昇華できる?それができるなら、私が抱える忍足の殻が破られる瞬間なのかもしれない。かつての忍足しか好きになれなかったけれど、そう思わせないようになれれるかもしれない。時代を超える人に忍足がなったなら、その時私は今までの忍足と別離できる。昨今のイメージを包括した上でかっこいい忍足を受け入れられる。行かないでほしいと思う気持ちもあれど、続く為には変化しないといけないのもわかる。忍足の人気が続いて欲しいと思うことは当然のことだ。先生が歩む、誰も通っていない道を忍足が通るのも近いのかもしれない。早く会いたい。新しい忍足の低い産声を聴ける日を今はただただ待ち続けている。
(注1:2018年現在一番氷帝らしさを感じるキャラクターは鳳だと思っている。幼稚舎から氷帝に通い、テニス部に入学したときには跡部体制というサラブレッドは、圧倒的に氷帝生としての自覚がありすぎる。余裕とプライド、驕りと少しの高慢さ。氷帝を表現する言葉は鳳に全て当てはまる。中学テニス界という枠組みの中に氷帝がある。鳳は氷帝学園という枠組みの中でも氷帝に成り得るところがらしいなぁと思う)
(注2:テニスの王子様における制服、基準服はコート外という境界になっているかもしれないなと今思った。レギュラージャージが象徴であるように、制服や基準服も象徴かもしれない。ラケットを置いてコートを出たことの表れ。だから関東決勝でみな制服か基準服なのだ)
(注3:このオーダーについてはあくまでメタ的視点からの読み解きなので、氷帝テニス部のオーダーとしての忍足侑士のS3の意義は全く違うところにあると思う。S3の意義というよりもどちらかというと初戦としての意味が強いと思ってる)
(注4:ここで忍足×桃城or桃城×忍足のCPの楽しみ方が初めてわかった!アハ体験した。忍足を形成するときに桃城が強く影響したって事ね!)
(注5:この仕上がってなかったっていう感覚が、ikmの最高到達点は知らないのに当然のようにもっとできると思ってしまってる。ikmがどう仕上げてきたかなんて分かりようがないのに、私の思う忍足じゃない時点で、未達成という感覚)
(注6:新テニコミックスの売り上げ要員なのではと邪推する。無印原作を追っていた人全員が新テニを追っているわけじゃないと思うし、新テニ開始当初の私もそうだったのだけど、テニス関連イベントの動員数やテニミュの動員数が芳しい反面、本編の売上がそこまでないんだと思うんだよね。チョコは贈るけど缶バッチは買わないよね、という先生の言葉に集約されるように。特にテニミュに感じるけど、他メディアが加速度的に進んでいく中で、ファンの中でも原作に近しい部分にお金を払う比率が下がっているんじゃないかな。テニミュのファンだけど原作知らないという人がいるように。そしてそういうパターンからファンになった人が、新テニを買うかと言われたらテニミュに直結してないから、新刊でわざわざ買わないだろうし。先生が新テニを舞台でやってほしいというのは、純粋に見たいことももちろんあれど、そこから書籍の売り上げを伸ばしたいのでは?と勘ぐったり。忍足は他メディアでは今そこまで露出が多い人では無いし(Ex:白石における細谷効果や幸村における増田・神永・立石効果)、原作に忍足を登場させることで、かつてのファンの購買意欲をくすぐろうとしてるんじゃないかな。新テニに入って活躍する面子が固定していた(強さ的に仕方ないけど)のは見ればわかることだし、一石を投じる役目を忍足が担ったんじゃないかな)
(注7:跡部の全てを愛せるけれど、私が跡部と認める範囲は激狭なので、端から見るとかなり排他的な接し方になっていると思う。ぜんぜん愛して無いように見えるかもしれない。忍足からかけ離れるので今回は割愛する)
別添)かつての最遊記53、BSR佐政、復活DH、fkmtじじまご、HQクロ月
3rd比嘉公演で菊丸に殴られた話
20180411ログ
私が初めて生でみたのは2nd全国氷帝だったから、そこからぐるっと一周した。
元々氷帝ファンの私にとっては比嘉はそこまで思い入れはなく、印象の薄い学校で公演だった。そもそも比嘉公演を通して見たことがなかった。
1stのDVDを繰り返し見る中で比嘉キャストを見たり、2ndに通ってその中で見たりする程度の知識しかなかった。
私にとって比嘉戦は、あくまで比嘉の2回戦で青学と戦って負ける、もしくは青学の1回戦で比嘉と戦って勝つ物語だった。
佐伯もいたけど、正直佐伯の印象も薄い。比嘉戦の比重が、手塚の復帰戦としての印象が強いから、比嘉公演もそのイメージで、佐伯は異物のようにも感じていた。公演としてくっつけざるを得ないけど、彼が一人で戦う姿にそこまで入り込めなかった。
比嘉戦は六角の仇を取る青学の物語で、手塚の復帰戦っていう青学カラーの強い公演だと位置付けていた。
3rd比嘉公演もそういう眼鏡で見てた。結局私は氷帝ファンだし、次の全氷でサポートにくる子たちを見ておくかくらいのナメくさった姿勢で見に行っていた。
まず完成度が高かった。立海も初日から良かったけど比嘉も良かった。演目中に茶番が多くてそこで公演がブレるような気もしたけど、とりあえずは比嘉がチームとして出来上がっている事がわかった。
そしてここでやっと比嘉公演の複雑さに気付く。私の中に凝り固まっていた青学対比嘉というストレートな公演じゃなくて、六角の意識を入れて立海の出番を出さなきゃいけないとやっと気づいた。4校は多い。
そして4校とも脚本に絡む。D2には佐伯が必要だし、S1には立海のトップ3が必要だった。青学vs氷帝とストレートに銘打てる全氷の方がよっぽど楽に作れると気付いた。だって比嘉にどれだけ好きなことさせてもブレることが無い。でも比嘉公演で立海に好き勝手やり過ぎると締まらなくなっちゃう。難しい。やっぱりタイタニックは要らない。
そしてキャラクターを拡大し続けるテニミュの集大成を見た。不知火と新垣。
滝萩之介、内村京介、首藤聡とキャラクターの解釈を何人もしてきた集大成だったように感じた。だってもうこれ以上は出来なくないか?彼ら以上にかたちづくるべきキャラクターはもう居ないのではないか?錦織翼をするなら不知火と新垣の前にやっておくべきだったよ。キャラクター解釈も二人でラリーが出来ると度合いが違う。一人でキャラクター作ろうとすると、純度が落ちるから。やる人の自我が入る。解釈に対して、それはどうかなぁ、って言ってくれる人と出来るとこんなに上手に出来るんだねっていうのを教えてくれた。
初めて通して見た比嘉公演は比嘉の完成度の高さもあって、華やさと見応えでもって、私の色眼鏡を叩き割った。
比嘉がかっこいい。比嘉公演って比嘉の公演なんだなぁ。比嘉のチームとしての仕上がりに圧倒されてそれに終始していた。
私は青8も青9も初日に仕上がってなかったと感じてしまってから、そのままハマる事もなく、どちらかというと冷ややかに見てしまっていたので、卒業を控える比嘉公演でもそこまでの感慨も無く迎えて終わる予定でいた。なんなら当代リョーマの続投もあって、どちらかと言えば来たる10代目への期待値の方が高かった。
そんな私の腐った性根を今度は菊丸が叩き折った。
菊丸英二がやばい。
手塚でも木手でも佐伯でもリョーマでもない、菊丸がやばい。
凱旋公演で菊丸英二を初めて見つけた。人間としての菊丸英二だ、ゴールデンペアとしてでもない、キャラクターじゃない、等身大でそこにいる葛藤を抱えた菊丸英二を見つけた。見つけたというよりも見つけさせられた。菊丸英二を見ないで何を見るんだ、と言わんばかりに訴えかけられた。
S2が嫌いだった。もっと言うならバイキングホーンが好きじゃない。あれは演出がふざけ過ぎるから。前述の通り立海の茶番もここだ。そもそも審判コールがあるのにテニス用具以外が舞台上にあるのが嫌だ。曲終わりの審判コールの前に甲斐くんはマントと帽子を脱ぎ捨てられないのかと今でも思う。だからあまり気に留めてなかった。S2は、六角の因縁をある種、晴らしたD2と、比嘉の因習をさらに砕くS1の繋ぎの試合としか見ていなかった。ここでチームの勝敗が決まるのに。
ここで甲斐くんが負ける意味を知ったのが比嘉の東京公演だった。
ここで菊丸が勝つストーリーを見つけたのが凱旋公演だった。
菊丸英二はブチギレていた。
でもそれは六角に対する比嘉の行いに対してじゃなかった。
菊丸英二がブチギレていたのは相方に対してと自分に対してだ。
自分と一緒に掲げた目標を相方が反故にした。相談もなく、パートナーである自身よりチームが勝つ事を優先させられた。
自分をないがしろにした相方に見せつけるシングルスだ。そんな思い入れに他校の仇なんて入る隙は無い。
甲斐くんは的外れだった。菊丸の原動力は内々にあって、比嘉への闘争心なんぞほぼ無い。あっても義理だ、自分の中にある意地には勝てない。
テニミュを通して、屈指の試合数を誇る菊丸、その中でタブルスをしない菊丸英二は比嘉だけ。
シングルスの試合をして勝つ菊丸。
一言で表せばそれまでだけど。菊丸がダブルスを組めなくなって、しかもそれを手塚と大石の試合という形で知らされて、大石はもう納得してて、菊丸には説明もないのに、全国No.1ダブルスになるっていう夢は潰えたのに、誰からもフォローはなくて、手塚の復帰を喜べもしなくて、でも全国初戦でシングルスとして出ることになって、自分がしてきたことはシングルスで勝つためなんかじゃなかったのに、それでも見せつけるためには戦って勝つしかない。
自分に手塚ほどの力量があれば違う形で大石とのダブルスを継続させられたんじゃないか、青学レギュラー陣を納得させられたんじゃないかとか考えたんじゃないか、とすら思わせる。舞台上で吐き捨てるセリフと、力のこもった指先から、菊丸の思考した道が見えるようだった。
ディティールの細かさが比ではない。
菊丸英二を一つ上の段階へぶち上げた。
比嘉公演を菊丸英二の羽化公演に仕立て上げた。
ぞっとした。もう何周も何周も見てる。
原作も見てる。OVAも見てる。1st2nd3rdで比嘉公演だけでもう何回幕が開いたのか知らない。それなのに今まで知らなかった。六角と比嘉の因縁の裏で、比嘉と青学の勝負の裏で、菊丸英二がひとり、こんなに発奮していたと知らなかった。
私が知っていたのは知識としてだ、ゲームセットウォンバイの結果だけ知ってた。比嘉公演を解体した中に何があるのか知らなかった。ブチギレた菊丸英二が私を殴った。
最高の出来栄えだったと思う。
全国No.1を目指す菊丸英二の日常の延長に比嘉戦があった。それくらいの引力だった。この菊丸の動力には負けるかもしれない。
この菊丸がもう見れなくなるんだなと思ったときに、やっと卒業を感じた。次の菊丸へのバトンは尋常じゃない重さだ。だってこの菊丸は公演を一つ塗り替えた。ただでさえ4校出演の公演をもう一枚厚くした。
次の菊丸というのは10代目青学の菊丸だけじゃない。あると信じてやまない4th5thで比嘉公演を演じる、比較されるだろう菊丸へのプレッシャーだ。それくらい公演の見方を一新した当代菊丸の偉業は大きい。
当代菊丸への寂しさと次の菊丸への不安と、同時にこの菊丸を推した制作サイドへの期待が生まれた。3rdでは技術的な面での革新が目立っていたけど、この角度からでも公演を新しくしてくれるのかと。
私は氷帝のファンだから次の全氷が本当にわくわくした。新しいものが見れる気がした。
私の知らない氷帝を見せてくれると思った。もしくは青学の一面を見つけさせてくれると思った。期待した。
今までのテニミュ暦で一番生で回数見たのは間違いなく2nd全氷で、でも映像として見てるのは恐らく1st全氷だとか、思い入れがある公演だから。
恐らく全氷はそれぞれみんな人並み以上に思い入れがあって、ファンとして面倒臭い公演の自覚はあった。
1st当時も2nd当時もゴタゴタしてた。キャストが定まらなかったり、DVDが廃盤になったり、舞台の外での問題とかドラマ性とかが多すぎた。話が逸れるけど氷帝キャストと立海キャストを、関東と全国で揃える事を通例にしてしまった事実は大きい。
全国大会氷帝戦には本来不必要な事が周りに多すぎた。ミュージカルテニスの王子様を取り巻く物語と、舞台上の物語を重ねすぎると軸がブレる。
全氷に演目としての自立が欲しかった。
DVDの廃盤に伴って初代氷帝の神格化に拍車がかかった。
現行のレギュラージャージを着る氷帝が至高でないとだめだ。だってそうじゃなきゃ氷帝から遠ざかる。
誰がやっている跡部か、に執着するのは、私と跡部の間に誰かを介してる。跡部に近づきたいのに、跡部から遠ざかるようでは意味がない。
2nd全氷はほぼ改変が無かった。
曲も演出もほぼ変わらなかった。
これが全氷だと型押しされたように感じた。
1st持ち上げすぎたからか、1stの全氷が公式としてはもう見られない形になったからか分からないけど、見たいと言っていた全氷を貰った。
でもそうじゃなかった。
だって誰にも見えない糸でぼろ泣きした。
新しい事をしてほしい。新しい歌もほしい。
もう1stから続く全氷をぶち壊してほしい。
2nd跡部が1st跡部を心酔してたとか、D1にも曲をくれと直談判しに言ったとか、もうそういう欄外の事も無くしてほしい。
全氷一新の為なら、氷の世界も誰にも見えない糸も要らないと思う。
そういう事が出来る時期に、やっと氷帝がなったと思った。長かったと思った。
3rdの比嘉公演を作ったスタッフなら出来ると思った。当代の氷帝ならそれが出来ると思った。全く新しいものを見せてくれるともう、確信してた。
会える。
やっと新しい全国を戦う氷帝に会える。
矢先だった。
終わった。
もう終わった。最悪だった。
呪われてると心底思った。
現行のキャストじゃ無くても、どうしたって連想する。
2ndのDVDも廃盤になるんじゃないかと思ってる。廃盤にしてほしいとも思う。
彼の跡部を世の中に出したくない。
もう顔も、見たくない。
ただ廃盤になって2ndの二の舞になるのは嫌だった。
焼き直しの全氷なんてもう欲しくない。
DVDで過去公演が見られないからって、当時の、現行の、氷帝に背負わせるのはやめてほしい。
その時のキャストだから演じきる事ができる演目に仕上がっているんだから。
1st用の全氷をいつまでもやらせてちゃ駄目なんだよ。
それなのに。
新しいものが見れると思っていたのに。
キャストにもテニミュにも、それだけの力があるのに。
また舞台外が足かせになる。
全国氷帝をいつになったら真っさらな気持ちで見られるのだろう。
コートの中に集中したい。
全国大会氷帝戦の中にある物語を見つけたいのに。
付随される事情が多すぎる。
3rdの青学10代目でテニミュが終わるというのも現実味がある。
そうなった時、私は全国氷帝をどう受け止めたら良いんだろう。
2ndの全国氷帝をつくるとき、DVDの廃盤という問題が念頭になかったはずがない。
今回3rd氷帝をつくるとき、今回の事件が念頭にないはずがない。
比嘉公演の衝撃を全国氷帝で味わいたかった。
悔しい。
どうか杞憂に終わって欲しい。